三國志卷四十四 蜀書十四 姜維

姜維(字は伯約)、天水冀の人。魏軍の混乱に乗じて蜀に投じ、諸葛亮に才を見出されて重用された。亮の没後は蜀の北伐を主導する将となり度々魏へ出兵したが、段谷での大敗で威信を落とした。蜀の滅亡に際しては剣閣で防戦したのち鍾会に降り、蜀の復興を図ったが乱の中で殺害された。

年表(14件)

魏からの帰順

  • 姜維、字は伯約、天水冀の人。幼くして父を失い母と暮らし鄭氏学を好んだ。『傅子』によれば功名を立てることを好み密かに死士を養い凡俗の業を修めなかったという。郡の上計掾として仕え、州から従事に召された。父の冏がかつて郡功曹として羌戎の叛乱時に郡将を守り戦死したことにより維は中郎の官を賜り本郡の軍事に参与した。建興六年(228年)、丞相諸葛亮が祁山に進軍した際、天水太守が外出中で維や功曹梁緒・主簿尹賞・主記梁虔らが随行していたが、太守は蜀軍接近と諸県の呼応を疑い夜に上邽へ逃走、維らが気づき追ったが城門は閉じられ入れず、冀県に戻ったが冀県も維らを入れず、やむなく諸葛亮のもとへ投じた。折しも馬謖が街亭で敗れ、亮は西県の千余家と維らを連れて撤退したため維は母と離散した。『魏略』の異伝では、天水太守馬遵が維らを連れ雍州刺史郭淮に随行中に亮の接近を知り上邽へ引き返し、維は冀県に戻ったが吏民に推されて亮に投じ、亮は大いに喜んだが前鋒が張郃・費曜らに敗れたため冀県の家族を迎えられず維はやむなく蜀に入った、諸軍が冀を攻めた際も維の家族は殺されず官の監視下に置かれたとし、本伝とは異なる伝えとなっている。
  • 亮は維を倉曹掾・奉義将軍・当陽亭侯とし、時に二十七歳であった。亮は張裔・蒋琬への書で「姜伯約は時事に忠勤で思慮精密、その才は李永南・馬季常らも及ばない、涼州随一の士である」「まず中虎歩兵五、六千を教練させよ、伯約は軍事に敏く胆識も深く、心は漢室にあり才は人に優れる、教練を終えたら宮中に遣り主上に謁見させよ」と評した。孫盛『雑記』によれば、維が亮のもとへ赴き母と離散した後、母からの手紙で当帰(漢方薬、帰るの意も掛ける)を求められた際、維は「良田百頃も一畝にあらず、遠志(同じく漢方薬、志を掛ける)あれば当帰にはあらず」と答えたという。後、中監軍・征西将軍に昇進した。

北伐の展開

  • 十二年(234年)、亮が没し維は成都に戻り右監軍・輔漢将軍として諸軍を統べ平襄侯に進んだ。延熙元年(238年)、大将軍蒋琬に従い漢中に住み、琬が大司馬に遷ると維は司馬となり度々偏軍を率い西方へ出撃した。六年(243年)、鎮西大将軍・領涼州刺史。十年(247年)、衛将軍に遷り大将軍費禕と録尚書事を共にした。この年、汶山平康の夷が反すると維がこれを討平、また隴西・南安・金城方面に出て魏の大将軍郭淮・夏侯覇らと洮西で戦い、胡王治無戴らが部落を挙げて降ると維はこれを移し安処させた。十二年(249年)、仮節を受け再び西平に出たが克たず帰還した。維は西方の風俗に通じ自らの才武を恃み、羌胡を誘って翼とし隴以西を切り取ろうと大挙を望んだが費禕は常に抑制し兵は一万に満たなかった。『漢晋春秋』によれば、費禕は維に「我らは丞相にも遠く及ばぬ、丞相でさえ中夏を平らげられなかった、まして我らは国を保ち民を治め社稷を守り功業は後の能者に委ねるべきで、僥倖を頼み一挙に勝敗を決すべきではない、志を得なければ悔いても及ばない」と諫めたという。
  • 十六年(253年)春、禕が没した。夏、維は数万を率い石営を出て董亭を経て南安を包囲したが、魏の雍州刺史陳泰が洛門まで進み解囲、維は糧が尽きて撤退した。翌年、都督中外軍事を加えられ再び隴西に出て、狄道長李簡が城を挙げて降伏、襄武を包囲し魏将徐質と交戦してこれを破り魏軍は敗走、維は乗勝して河間・狄道・臨洮三県の民を蜀へ移した。十八年(255年)、車騎将軍夏侯覇らと共に狄道に出て魏の雍州刺史王経を洮西で大破、経の兵は数万が戦死、経は狄道城に籠り維はこれを包囲したが魏の徴西将軍陳泰が進んで解囲し維は鐘題に退いた。
  • 十九年(256年)春、維は大将軍に昇進、軍を整え鎮西大将軍胡済と上邽で会する約定をしたが胡済は約束を違え到着せず、維は魏の大将鄧艾に段谷で大敗、兵は四散し戦死者多数、これにより民衆は怨嗟し隴以西も動揺した。維は過ちを認め自ら降格を求め後将軍・行大将軍事となった。
  • 二十年(257年)、魏の徴東大将軍諸葛誕が淮南で反すると関中の兵が東下、維はこの隙に秦川を窺い数万を率い駱谷を経て沈嶺に至った。長城は蓄積の穀物が多いのに守兵少なく維の接近に皆恐れたが、魏の大将軍司馬望・鄧艾が長城で防ぎ、維は芒水に進み両軍とも山を頼りに陣を敷いた。望・艾は渭水沿いに堅く囲み維の度重なる挑発にも応じず、景耀元年(258年)、諸葛誕の敗北を聞き維は成都に戻り再び大将軍を拝命した。

防衛策の変更

  • かつて劉備が魏延に漢中を守らせた際は各囲に実兵を配し敵の侵入を防ぐ方針で、興勢の役でも王平がこれを踏襲し曹爽を防いだ。維はこれを改め、敵が来れば各囲は兵と穀物を収めて漢城・楽城に退き敵を平地に入れず、要衝の関で防ぎつつ遊軍で虚を衝く策(『周易』の「重門」の意にはかなうが積極的な利は得られないとの判断による)を建議、督漢中の胡済を漢寿に、監軍王含を楽城に、護軍蒋斌を漢城に、その他西安・建威・武衛・石門・武城・建昌・臨遠にも囲を設けさせた。

黄皓の専横と蜀の滅亡

  • 五年(景耀五年、262年)、維は漢・侯和方面に出撃したが鄧艾に敗れ沓中に退いた。維は長年他国から身を寄せた将として戦功が立たず、宦官黄皓が権を弄び右大将軍閻宇と結託して密かに維を廃し宇を立てようとしていたため維も疑い成都に戻らなくなった。『華陽国志』によれば、維は黄皓の専横を憎み後主に誅殺を進言したが後主は「皓は小臣に過ぎない、董允がかつて憎んだのを私は恨んでいた、気にするな」と取り合わず、維は皓の勢力の根深さを恐れ言葉を控えて退出、後主は皓に維へ謝罪させたが、維は皓を恐れ沓中での屯田を口実に成都を避けたという。
  • 六年(263年)、維は後主に「鍾会が関中で挙兵し進取を図っている、張翼・廖化を陽安関口・陰平橋頭に派遣し防ぐべき」と上表したが、黄皓は鬼神の占いを信じ敵は来ないと後主に取り成し公表されなかった。鍾会が駱谷へ、鄧艾が沓中へ進む段になってようやく右車騎廖化を沓中へ、左車騎張翼・輔国大将軍董厥らを陽安関口へ派遣、陰平まで進んだが魏将諸葛緒が建威へ向かうとの報に留まって様子を見た。その間に維は鄧艾に沓中で撃破され陰平に退却。鍾会は漢城・楽城を包囲、別将が関口を攻めると蒋舒が開城して降り傅僉は力戦して戦死した。『漢晋春秋』によれば、蒋舒が「敵が来ても撃たず城に籠るのは得策でない」と偽って傅僉を誘ったが僉は「保城が任務」と拒み、舒は単独で出撃して降伏、僉は陰平で降胡烈の急襲を受け力戦して死んだ、魏人もその義を称えたという。『蜀記』によれば、蒋舒は武興督として無能とされ交代を命じられていたため恨んで開城降伏したとも伝わる。鍾会は楽城を攻めきれず、関口陥落を聞き長駆して迫り、張翼・董厥はようやく漢寿に至り、維・化も陰平を捨てて退却し翼・厥と合流、共に剣閣に拠って会を防いだ。会は維へ書を送り「あなたの文武の徳と世に抜きん出た略、巴漢に功を立て名は華夏に轟いている、かつて共に王化に浴した誼で呉札・鄭僑の交わりに倣いたい」と述べたが維は返書せず険を守った。会は攻めあぐね兵糧の輸送も遠く撤退を議し始めたが、鄧艾が陰平から景谷道を経て奇襲し諸葛瞻を綿竹で破り、後主が艾に降伏を請い艾は成都に入った。維らは瞻の敗報を聞き成都固守説・呉への脱出説・南方建寧への脱出説が乱れる中、広漢・郪道を経て情勢を探ったが、後主の勅命により武器を捨て会の陣に降った。将士は皆怒り刀で石を斬りつけたという。干宝『晋紀』によれば、会が「なぜこんなに遅れたのか」と問うと維は涙を流し「今日ここに至ったのがまだ早い方だ」と答え、会は大いにその器量を認めたという。

鍾会との謀と最期

  • 会は維らを厚遇し印綬節蓋を返還、外出には共に輿に乗り座には席を同じくし、長史杜預に「伯約を中原の名士に比べても公休(諸葛誕)・太初(夏侯玄)も及ばない」と評した。『世語』によれば、当時蜀の官属は皆天下の英俊で維に及ぶ者はいなかったという。会は鄧艾を陥れ檻車で護送させ、維らを連れて成都に至り自ら益州牧と称し反乱を企てた。
  • 『漢晋春秋』によれば、会は密かに異図を抱き、維はその心を察し擾乱を醸して蜀復興を図ろうと会に説いたという――「あなたの淮南以来の謀略と晋の隆昌はすべてあなたの功、今また蜀を平定しその威徳は世に轟くが、それゆえに民は功を高く見、主君は謀を畏れる、韓信が乱世の中で漢に背かず平定後に疑われ、大夫種が范蠡に従わず剣に伏して死んだ例のように、闇君愚臣でなくとも利害がこうさせる、あなたも陶朱公のように舟を浮かべ姿を消し峨眉山に登り赤松子に従ってはどうか」。会は「その言は遠大すぎて私には行えない、今の道はまだこれに尽きない」と答え、維は「それ以外はあなたの智力次第、私の及ぶところではない」と応じ両者は意気投合したという。『華陽国志』によれば、維は会に北来の諸将を誅殺させ、その後会も殺して魏兵を皆生き埋めにし蜀の社稷を復そうとし、密かに後主へ「陛下は数日の恥を忍んでいただきたい、私は社稷を危うきより安きに、日月を幽きより明るきに戻したい」と上書したという。孫盛『晋陽秋』によれば、永和初年に安西将軍に従い蜀を平定した際、故老たちから聞いた話として、維が降った後に密かに劉禅へ、会に偽って仕え殺して蜀を復そうとしたが事は成らず消滅したと伝わり、蜀人は今もこれを悼んでいるとしつつ、盛自身は「困るべきでない所で困窮すれば名を辱め、拠るべきでない所に拠れば身を危うくする、鄧艾が陰平に入った際、維は綿竹で節を尽くすことも、五将を統べ蜀主を守り後図を計ることもできず、逆順の間を反覆し、衰弱した国で三たび秦に兵を向けた、既に滅びた国で望み得ぬ奇功を期すとは闇いというべきではないか」と維を批判した。裴松之は盛の批判に反論し「鍾会の大軍が剣閣に迫った時点で維は諸将と守りを固め会は進めず既に撤退を議していた、全蜀の功はほぼ成るところだった、鄧艾の奇襲さえなければ諸葛瞻の敗北も成都の潰乱もなかった、維が軍を返せば会がその背を衝いたはずで両立は不可能だった、綿竹での節義を求めるのは理に合わない、会が魏将を皆坑にして事を挙げようとし維に重兵を授け先鋒とさせようとしていた以上、魏将が死ねば兵権は維の手中にあり会を殺し蜀を復すのは難事ではなかった、外にあって理を成すのが奇というもの、田単の計も僥倖がなければ成らなかった、維を闇愚と呼ぶのは当たらない」と論じた。維に兵五万を授け前駆とさせようとしたところで、魏の将士が憤発し会と維を殺害、維の妻子も皆誅された。『世語』によれば、維は死後解剖され胆は斗のように大きかったという。

郤正と孫盛の評価をめぐる論争

  • 郤正は維を論じ「姜伯約は上将の重責を担い群臣の首位にありながら住居は粗末で財も残さず、側室に妾もなく後庭に音楽の娯しみもなく、衣服・車馬・飲食は質素倹約を旨とし官給の費用も使い尽くした、これは貪濁を戒めるためというより、ただ足るを知りこれ以上を求めなかっただけだ、世の常として成功を誉め失敗を貶し、姜維も身を滅ぼし宗族を絶やしたことで貶められ再評価されないのは『春秋』の褒貶の義に外れる、学を楽しみ倦まず清素節約であった点は一時の儀表というべきだ」と評した。孫盛はこれに反論し「士は百行あれど忠孝義節こそ冠冕、姜維は魏に仕えながら蜀に奔り君に背き利に走ったのは忠でなく、親を捨て身を全うしたのは孝でなく、旧邦(魏)に害を加えたのは義でなく、敗れて難に死ななかったのは節でなく、徳政を敷かず民を疲弊させ守備の任にありながら国土を失ったのは智勇いずれの点でも評価できない、六徳のいずれも維にはなく、実に魏の逋臣・亡国の乱相であり、これを人の儀表と言うのは惑いである、書を好み身を飾ったところで盗賊の分配の義や程鄭の卑下の善と何が異なろうか」と述べた。裴松之は「郤正の論は取るべき点(好学と倹素)のみを称えたもので維の始終の行いすべてを是とするものではない、本伝・魏略とも維に元来叛意はなく急迫の事情で蜀に帰したとある、盛の批判は母を捨てた点を責めるにとどめるべきで、過度に苦しく郤正を難じるにも及ばない」と評した。維とともに蜀に入った梁緒は大鴻臚、尹賞は執金吾、梁虔は大長秋に至ったが、いずれも蜀の滅亡前に没していた。

評價

評曰:蔣琬は端正で威厳があり、費禕は寛容で博愛、共に諸葛亮の定めた規範を継承し因循して改めなかった、これにより辺境に憂いなく国内は一体を保ったが、なお小事を治め静を保つ理を尽くしたとは言えない。裴松之は「蒋琬・費禕が相として画一の方針を守り功を求めて妄動せず、外は駱谷の軍を退け内は安寧を保ったのはまさに小事を治め静を保つ理を尽くしたものであり、これ以上を求めるべきではない、今その未尽を譏りながらその事実を示さないのでは読者に真意が伝わらない」と反論した。姜維は文武に多少の才があり功名を立てる志を持ったが、多くの軍を動かしながら明断を欠き遂に身を滅ぼした。老子に「大国を治むるは小鮮を烹るが如し」とある、まして小さな蜀でしばしば民を動員してよいものか。干宝は「姜維は蜀の相でありながら国が亡び主が辱められても共に死なず、鍾会の乱で死んだのは惜しい、死ぬこと自体が難しいのではなく死に処する道が難しいのだ、古の烈士が危難に命を投げ出したのは死を厭わなかったのではなく、天命の短さを知りつつその死に場所を得られぬことを恐れたからだ」と評した。