三國志卷四十四 蜀書十四 費禕

費禕(字は文偉、?–253年)、江夏鄳の人。若くして諸葛亮に見出され、呉への使者として孫権を相手に外交手腕を発揮した。蒋琬の後を継いで尚書令・大将軍として国政を統率し、魏延と楊儀の対立を調停する調整力でも知られたが、宴席で魏の降人郭循に刺殺された。

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董允との比較と外交での活躍

  • 費禕、字は文偉、江夏鄳の人。幼くして父を失い族父の伯仁に依った。伯仁の姑は益州牧劉璋の母であり、璋が使者を送り伯仁を迎えると、伯仁は禕を連れて遊学し入蜀した。劉備の蜀平定後、禕は益州に留まり汝南の許叔龍・南郡の董允と名を並べた。許靖の子の喪の際、允と禕が共に会葬しようとし、允の父董和が古い鹿車しか用意しなかったため允は難色を示したが禕はすぐに乗り込んだ。喪所に着くと諸葛亮ら貴人が多数集まり車馬も立派な中、允はなお不安そうだったが禕は泰然としていた。車を戻した御者から様子を聞いた董和は允に「お前と文偉の優劣に迷っていたが、これで分かった」と語った。
  • 劉備の太子擁立に伴い禕・允は舎人となり庶子に昇進。後主践祚後、禕は黄門侍郎となった。丞相亮の南征帰還時、群僚が数十里先まで出迎える中、年齢・地位が禕より上の者が多かったが亮は特に禕を同乗させ、これにより人々の禕への見方が一変した。亮は南方から戻った直後、禕を昭信校尉として呉へ使者に立てた。孫権は滑稽で無方な嘲弄を好み、諸葛恪・羊衜らの博識果断な論客が次々論難を仕掛けたが、禕は理に適った言葉で応じ最後まで屈しなかった。禕別伝によれば、孫権は別に良酒を用意し禕を酔わせてから国事を問い難問を重ねたが、禕はその場では酔いを理由に答えを控え、退出後に一つずつ書き出して答え漏れがなかったという。権は禕を高く評価し「君は天下の淑徳の士、必ず蜀朝の股肱となろう、もう度々来られまい」と述べ、佩刀を贈った。禕は「刀は不庭を討ち暴乱を禁じるためのもの、ただ大王が功業を建て共に漢室を助けられんことを願う、私は非才だが東方への配慮を裏切らない」と応じた。帰国後侍中に昇進。亮が漢中に住むと参軍に召され、使者としての功で頻繁に呉へ赴いた。

魏延と楊儀の調停

  • 建興八年(230年)、中護軍、後に司馬に転じた。当時軍師魏延と長史楊儀が互いに憎悪し、席を同じくすると刀を構える延と涙する儀の様な事態が繰り返されたが、禕は常にその間に入り調停し、亮の存命中は両者の力を共に活かすことができた。これは禕の匡救の力によるものであった。

尚書令から大将軍へ

  • 亮の没後、禕は後軍師となり、間もなく蒋琬に代わり尚書令となった。禕別伝によれば、軍国多事で公務が煩雑な中、禕は記憶力に優れ一瞥で要旨を把握し人の数倍の速さで処理しつつ忘れることもなく、朝夕の政務の合間に賓客の接待・飲食・博戯も楽しみながら職務も滞らせなかった。後任の董允はこれを真似ようとして十日で事務が滞り「才の差はこれほど遠いのか、終日聴事してもなお手が回らない」と嘆いたという。琬が漢中から涪に戻ると禕は大将軍・録尚書事に昇進した。
  • 延熙七年(244年)、魏軍が興勢に迫ると禕は仮節を受け軍を率いて防いだ。出発前、光禄大夫来敏が禕に囲碁を求め、緊迫した戦況の中でも禕は動じず対局を続け、敏は「試しただけだ、君は信頼できる、必ず賊を退けるだろう」と述べ、実際禕の到着で敵は退却し禕は成郷侯に封じられた。殷基『通語』によれば、司馬懿が曹爽を誅した際、禕は甲乙の論を著し是非を論じたという――甲論は曹爽兄弟を凡庸な宗室として司馬懿の誅殺を当然視し、乙論は司馬懿の動機の私的な面を疑い、曹芳を巻き込んだ強引さや何晏らへの連座など曹爽一族の粛清の過酷さを批判する内容であった。琬が州職を固辞すると禕が益州刺史を再び領し、国政における功名は琬とほぼ並んだ。禕別伝によれば、質素な性格で蓄財せず子供にも布衣粗食を課し車馬も従者もなく凡人と変わらなかったという。十一年(248年)、漢中に出て以後は琬・禕とも身は外にあっても賞罰の決定は常に成都へ諮問した上で行った。十四年(251年)夏、成都に戻ったが望気者が都邑に宰相の位がないと言ったため冬には漢寿に移った。
  • 延熙十五年(252年)、開府を命じられた。十六年(253年)歳首の大会で、魏の降人郭循が同席し、禕が歓飲し酔った隙に刺殺された。諡は敬侯。子の承が嗣ぎ黄門侍郎、弟の恭は公主を娶った(禕別伝によれば恭は尚書郎として名を顕したが早世したという)。禕の長女は太子璿の妃となった。