三國志卷四十五 蜀書十五 鄧芝
鄧芝(字は伯苗、?–251年)、義陽新野の人、後漢の司徒鄧禹の子孫。劉備・諸葛亮に仕え、諸葛亮の命により呉との修好の使者となり孫権を説いて呉蜀同盟を再建した。のち車騎将軍に至り、清廉で私財を残さない人柄で知られた。
出自と若年
- 鄧芝は字を伯苗といい、義陽郡新野の人。後漢の司徒鄧禹の子孫である。
- 後漢末に蜀へ入ったが、初めは誰にも知られなかった。益州従事の張裕は人相見に長け、鄧芝の相を見て「あなたは七十を過ぎて大将軍となり、侯に封じられる」と告げた。
- 巴西太守龐羲が士人を好むと聞き、これに身を寄せた。劉備が益州を平定すると、鄧芝は郫県の邸閣督となった。劉備が郫に来て語り、その才を大いに認め、郫令に抜擢し、のち広漢太守に転じさせた。清廉で厳格な治績を挙げ、尚書に召された。
呉との修好
- 劉備が永安で崩じる前後、呉王孫権が和睦を求めてきており、劉備はしばしば宋瑋・費禕らを遣って応答させていた。丞相諸葛亮は孫権が劉備の死を聞いて異心を抱くことを深く懸念していたが、適任者がいなかった。
- 鄧芝は諸葛亮に「今、主上は幼少で即位したばかり。大使を遣って改めて呉との好誼を結ぶべきです」と進言し、諸葛亮は「その人物は既に得た。すなわちあなただ」と答え、鄧芝を呉へ遣わした。
- 孫権は当初疑って会おうとしなかったが、鄧芝は「私が来たのは呉のためでもあり、蜀のためだけではない」と自ら上表して面会を求め、孫権はこれに応じた。
- 孫権は蜀が幼主で国力弱く魏に乗じられることを恐れていると語ったが、鄧芝は呉蜀二国が四州の地を持ち、大王は当代の英雄、諸葛亮も一時の傑物であり、両国が唇歯の関係を結べば天下を併呑することも鼎立することもできると説いた。魏に臣従すれば魏はさらに入朝・太子の内侍を求め、従わなければ討伐を受け、その時蜀も呉を攻めるだろうと述べた。
- 孫権はしばらく黙考した後「あなたの言うとおりだ」と述べ、魏との関係を断って蜀と結び、張温を蜀へ報聘に遣わした。蜀は再び鄧芝を遣わし、孫権が「天下太平となり二人の主が分治すれば楽しいことだ」と言うと、鄧芝は「天に二日なく地に二王なし、魏を併せた後は覇を争う戦いが始まるだけだ」と答え、孫権は大笑いしてその率直さを称えた。
- 諸葛亮が漢中に駐屯すると、鄧芝は中監軍・揚武将軍となった。諸葛亮の死後、前軍師前将軍に進み、袞州刺史を領し、陽武亭侯に封じられ、のち江州都督となった。孫権はしばしば鄧芝に使者を送り、厚く贈り物をした。
晩年と評価
- 延熙六年(243年)、車騎将軍に昇り、のち仮節を得た。十一年(248年)、涪陵の住民が都尉を殺して反乱を起こすと、鄧芝が軍を率いて討伐し、首謀者を斬って民を安堵させた。
- 十四年(251年)、死去した。
- 将軍として二十余年、賞罰を明断し、兵卒をよく労わった。衣食は官給に頼りながらも倹約を強いず、私財は蓄えず、妻子は飢寒を免れず、死の日には家に余財がなかった。性格は剛直簡素で気取らず、士人の和を得にくかったが、姜維だけは特に重んじた。子の鄧良は爵を継ぎ、景耀年間に尚書左選郎となり、晋朝で広漢太守となった。