三國志卷四十三 蜀書十三 張嶷

張嶷(字は伯岐、?–254年)、巴郡南充国の人。孤微の出身ながら武勇と信義で知られ、若くして山賊討伐や叛羌討伐で功を挙げた。越巂太守として長く辺境の蛮夷を平定・懐柔し、塩鉄の産地回復や旧道再開通など治績を挙げた。晩年は姜維の隴西出兵に自ら望んで従軍し、狄道で魏将徐質と戦い戦死した。

年表(4件)

叛徒討伐と信義

  • 張嶷、字は伯岐、巴郡南充国の人。『益部耆旧伝』によれば孤微の出ながら通達の気概があり、若くして県功曹となったという。劉備の蜀平定の際、山賊が県を襲い県長が家族を捨て逃げる中、嶷は刃をものともせず県長夫人を背負い救出、これにより名を知られ州の従事に召された。当時郡内の名士龔祿・姚冑と親交があった。建興五年(227年)、丞相亮が漢中に駐屯する中、広漢綿竹の山賊張慕らが軍資を掠奪し官吏民を脅かしたため嶷は都尉として討伐、賊が散り易いため偽って和議を結び酒宴を約し、酔わせたところで慕ら五十余級を斬り首魁を平らげ、残党も旬日で平定した。後に嶷は重病を患い貧窮したが、名は厚情で知られる広漢太守何祗を頼って治療を受け数年で完治した。その信義の厚さはこの類であったという。牙門将となり馬忠に属し北は汶山の叛羌を討ち南は四郡の蛮夷を平定し、常に戦功を挙げた。『益部耆旧伝』によれば、他里の羌が険阻な地形に石の罠を築いた際、嶷は攻略が困難と見て使者で降伏を説き、糧を与えて軍を通過させ残党も平定したという。後に南夷の劉冑が再叛した際も馬忠に属し常に先鋒として功を立て冑を斬った。南方平定後、牂牁興古の獠族が再叛すると忠の命で嶷が討伐、内応で二千人を降し漢中に移した。

越巂太守としての治績

  • 十四年(236年)、武都の氐王苻健が降伏を求めたが迎えの将軍張尉が期限に遅れ大将軍蒋琬が憂慮した際、嶷は「苻健の帰順は真実で他事はない、弟が狡猾で夷狄は足並みが揃わず離反があるための遅れだろう」と述べ、数日後に健の弟が四百戸を率いて魏に投じ健のみが帰順したことで的中した。かつて越巂郡は丞相亮の高定討伐以降叟夷がしばしば叛き太守龔祿・焦璜が殺され、太守も赴任せず安定県に留まり郡は名ばかりとなっていた。世論が旧郡回復を望む中、嶷は越巂太守に任じられ恩情で誘い蛮夷を服させ帰順を進めた。北徼の捉馬族が最も驍勇で従わなかったため嶷は討伐しその首領魏狼を生け捕り、解放して残党の招懐に当たらせ、狼を邑侯に封じ三千余戸を安堵させると諸種族も次第に降伏した。この功で嶷は関内侯を賜った。
  • 蘇祁の邑君冬逢とその弟魄渠は降伏後再叛、嶷は逢を誅したが逢の妻(旄牛王の娘)は計略で赦した。渠は西徼に逃れたが剛猛で諸種族に畏怖されており、渠が放った偽の降伏者二人を嶷は逆に反間として使い渠を殺させ、諸種族は鎮まった。斯都の耆帥李求承(かつて龔祿を殺害した者)も捕らえて誅した。嶷は頽壊した郡の城郭を小さな塢に建て替え、三年で本郡に戻り城郭を修繕、夷種の男女も協力した。
  • 定莋・台登・卑水の三県は郡から三百余里、塩鉄・漆を産するが夷が長らく独占していた。嶷はこれを奪取し長吏を置いた。定莋の首領狼岑が嶷への服従を拒むと嶷は壮士数十人で捕らえ処刑し、屍を種族に返して手厚く弔慰し恩威を示すと種族は服した。これにより塩鉄を獲得し器用が充足した。
  • 漢嘉郡界の旄牛夷(四千余戸)の首領狼路が姑婿冬逢の報復を企てた際、嶷は牛酒を送り懐柔し、狼路の姉に逢の妻を説得させ和解、狼路は一族を率いて嶷に帰順した。以後旄牛は害をなさなくなった。
  • 郡には旄牛を経て成都に至る旧道があり平坦で近かったが百余年途絶え、迂回路の安上経由は険しく遠かった。嶷は狼路に賄賂を送り旧道開通を説得、路は兄弟妻子を率いて帰順、道は千里にわたり開通、駅站も復旧した。嶷は路を旄牛毗王に封じることを上奏し朝貢の使者を送らせた。後主は嶷を撫戎将軍に加え郡の統治は従来通りとした。嶷はかつて費禕が大将軍となり寛容にすぎ新参の降人を無条件に信用する様子を見て「昔岑彭・来歙は共に刺客に害された、明将軍は位重く権も大きい、前例を鑑み警戒すべき」と戒めた書を送ったが、後に禕は果たして魏の降人郭脩に害された。

諸葛瞻への諫言と最期

  • 呉の太傅諸葛恪が魏軍を破った勢いで大挙攻勢に出ようとした際、丞相亮の子である侍中諸葛瞻(恪の従弟)に嶷は書を送り諫めた――周公でさえ管蔡の乱に遭い、霍光も燕王・蓋長公主・上官桀の謀に遭った故事を引き、若い主君を残して遠征するのは危険であること、呉・楚の民は剽悍で急変しやすいこと、旋軍して農を広げ徳恵を施すべきことを説いた。恪は結局これを聞かず一族を滅ぼす結果となった。嶷の識見はこの類が多かった。
  • 嶷は郡に十五年在任し治績を上げ辞職を願い出て成都に召還された。夷民は嶷を慕い車を止めて涙を流し、旄牛邑では首長が出迎え、蜀郡境まで追いかけ朝貢に随行する者百余人に及んだ。嶷は成都で蕩寇将軍を拝命、その慷慨壮烈さは士人に称賛されたが放蕩で礼を欠く点は譏られもした。『益部耆旧伝』によれば、車騎将軍夏侯覇が「疎遠でも心は通じ合う」と述べたのに対し、嶷は「互いをまだ知らぬのに心を託すとは何事か、三年後に改めて語ろう」と答え、識者はこれを美談としたという。
  • この年(延熙十七年、254年)、魏の狄道長李簡が密かに降伏を求め、衛将軍姜維は嶷らを率いてこれに乗じ隴西へ出兵した。『益部耆旧伝』によれば、嶷は風湿の持病があり成都到着後は杖に頼るほど悪化していたが、李簡の降伏を疑う衆議に対し嶷のみが確信を示し、姜維の出兵に際しては股疾のため従軍を憂慮されたが、嶷は自ら望んで中原への出撃に加わったという。出発に際し後主に「聖明の世に過分の恩を受け、加えて病身、いつ命を落とすとも知れず栄遇に報いられないことを恐れていた、天が拒まなければ軍事に参与できる、涼州を平定できれば藩表の守将となり、もし敗れれば身命をもって報いる」と述べ、後主は感涙した。狄道に到着すると簡は城中の吏民を率いて出迎え、魏将徐質との交戦で嶷は陣中で戦死したが、敵に与えた損害は自軍の倍以上だった。長子の瑛は西郷侯を継ぎ、次子の護雄が爵を襲った。南方の越巂の民夷は嶷の死を悼み廟を建て四季・水旱ごとに祀った。『益部耆旧伝』は「張嶷は容姿弁舌で人を驚かせるものはないが、策略は的中し武勇で威を立て、忠誠と亮直の風があった、後主も深くこれを重んじた、古の英士も及ばないほどである」と評した。『蜀世譜』によれば、嶷の孫の奕は晋の梁州刺史となったという。

評價

評曰:黃權は弘雅で思慮深く、李恢は公明で志業に励み、呂凱は節操を曲げず、馬忠は「擾にして毅」(『尚書』の語で、馴良でありながら果断の意。鄭玄注に「擾は馴、果を致すを毅という」とある)、王平は忠勇で厳整、張嶷は識断明果、いずれもその長所によって名を顕し功績を立てた、時勢に恵まれたのである。