三國志卷四十三 蜀書十三 王平

街亭と興勢の功

  • 王平、字は子均、巴西宕渠の人。元は外家の何氏に養われ後に王姓に復した。杜濩・樸胡に従い洛陽に赴き仮校尉となり、曹操の漢中征討に従軍したのち劉備に降り牙門将・裨将軍となった。建興六年(228年)、参軍馬謖の先鋒に属した。謖が水源を離れ山に陣を敷き挙措も煩雑だったため平は繰り返し諫めたが謖は聞かず街亭で大敗、軍は四散したが平の率いる千人のみが鼓を鳴らし陣を保ったため魏将張郃は伏兵を疑い深追いしなかった。平は徐々に散兵を収拾し撤退させた。丞相亮は馬謖・張休・李盛を誅し黄襲らの兵を奪う一方、平を参軍に抜擢し五部を統べさせ営事も兼ねさせ討寇将軍・亭侯とした。九年(231年)、亮が祁山を包囲した際平は別に南囲を守り、魏の大将軍司馬懿が亮を攻め張郃が平を攻めたが平は堅守し郃も抜けなかった。
  • 十二年(234年)、亮が武功で没し軍が退却する際、魏延が反乱を起こしたが一戦で敗れたのは平の功による。後典軍・安漢将軍に昇進し車騎将軍呉壱を副けて漢中に住み漢中太守を兼ねた。十五年(237年)、安漢侯に進み呉壱に代わり漢中を督した。延熙元年(238年)、大将軍蒋琬が沔陽に住むと平は前護軍となり琬の府事を署理。六年(243年)、琬が涪に戻ると平は前監軍・鎮北大将軍として漢中を統轄した。
  • 七年(244年)春、魏の大将軍曹爽が歩騎十余万で漢川へ向かい前鋒は駱谷に達した。漢中の守兵は三万に満たず諸将は動揺、「固く漢城・楽城を守り敵を入れて涪の援軍を待つべき」との意見に対し平は「漢中は涪から千里、賊が関を得れば禍となる、劉護軍・杜参軍を興勢に配し自分は後拒となり、賊が黄金へ向かえば千人で自ら向かう、涪軍が到着するまでの間これが上策」と主張、護軍劉敏のみが同意し実行、涪の諸軍と費禕が到着すると魏軍は退却し、平の策通りとなった。当時鄧芝が東方、馬忠が南方、平が北方をそれぞれ守り功績を上げた。
  • 平は軍旅育ちで文字を書けず知る字は十字に満たなかったが、口述筆記で意味の通った文書を作らせ、人に『史記』『漢書』の紀伝を読ませて聴き大義を把握し論説も筋が通っていた。法度を守り言葉を弄ばず終日端座し武将らしからぬ姿だったが、性格は狭量で疑い深く、これが自らの評価を損ねた。十一年(248年)に没し、子の訓が嗣いだ。

句扶(附)

  • 平と同郡漢昌の句扶は忠勇寛厚、数々の戦功があり功名爵位は平に亜ぎ、左将軍・宕渠侯に至った。『華陽国志』によれば、のちの張翼・廖化と並び「前有王・句、後有張・廖」(前に王・句あり、後に張・廖あり)と称されたという。