三國志卷四十三 蜀書十三 馬忠

牂牁・南中の統治

  • 馬忠、字は德信、巴西閬中の人。幼くして外家に養われ狐篤と名乗ったが後に本姓に復し忠と改名した。郡吏として仕え、建安末に孝廉に挙げられ漢昌長。劉備の東征が猇亭で敗れた際、巴西太守閻芝が五千の兵を発し補充として忠に率いさせた。劉備は永安から忠と語り、尚書令劉巴に「黄権を失っても狐篤(馬忠)を得た、世に賢が乏しくないということだ」と評した。
  • 建興元年(223年)、丞相亮が開府し忠を門下督とした。三年(225年)、亮の南征に伴い忠は牂牁太守となり、郡丞朱褒の叛乱後の混乱を撫育し威恵を示した。八年(230年)、丞相参軍に召され副長史蒋琬とともに留府事を署理、州治中従事も兼ねた。翌年、亮の祁山出兵に際し軍務に従事した。軍の帰還後は張嶷らと汶山郡の叛羌を討伐した。十一年(233年)、南夷の豪帥劉冑が叛くと庲降都督張翼に代わり忠が討伐し冑を斬り南土を平定、監軍・奮威将軍・博陽亭侯に叙された。
  • 当初、建寧郡が太守正昂を殺し太守張裔を呉に縛って送った経緯から都督は平夷県に常駐していたが、忠に至って治所を味県に移し民夷の間に処した。また久しく失地していた越巂郡も忠は張嶷を将として旧郡を回復させ、これにより安南将軍・彭郷亭侯に進んだ。延熙五年(242年)帰朝、漢中で大司馬蒋琬に詔旨を伝え鎮南大将軍を加えられた。七年(244年)春、大将軍費禕が魏軍を防ぐ間、忠は成都に留まり尚書事を平(統括)した。禕の帰還後、忠は南に戻り十二年(249年)に没した。子の脩が嗣ぎ、脩の弟恢の子義は晋の建寧太守となった。忠は寛容で度量があり、大笑いすることはあっても怒りを表に出さなかったが、事の処断には決断力があり威と恩を並び立て、蛮夷は畏れつつ慕った。没した際は喪庭に集い哀哭し、廟を建て今も祀られている。張表は名士として忠を上回る清望を持ち、閻宇は功幹があり事に精勤したが、忠の後を継いだいずれも忠の威風・功績には及ばなかった。『益部耆旧伝』によれば張表は張肅の子、『華陽国志』は張松の子とするが未詳という。閻宇、字は文平、南郡の人。