三國志卷四十 蜀書十 李嚴
李厳、字は正方、南陽の人。もと劉璋配下だったが先主に降り、蜀平定後は軍功を重ね重用された。先主の臨終に際し諸葛亮と共に遺詔で少主の輔佐に任じられ中都護となったが、建興9年、北伐中の軍糧輸送の不備を諸葛亮の責に転嫁しようとして発覚し失脚、梓潼郡に流された。建興12年、諸葛亮の死を聞き発病して没した。
蜀入りと軍功
- 李厳は字を正方といい、南陽の人。若くして郡の職吏となり才幹で知られた。荊州牧劉表は諸郡県を歴任させた。曹操が荊州に入った際、李厳は秭帰の宰であったが西へ蜀に赴き、劉璋は成都令に任じ、そこでも有能さで名を挙げた。
- 建安18年〈213年〉、李厳は護軍に任じられ綿竹で先主を防ごうとしたが、逆に麾下を率いて先主に降った。先主は李厳を裨将軍とした。成都平定後、犍為太守・興業将軍となった。
- 建安23年〈218年〉、盗賊馬秦・高勝らが郪で挙兵し数万の部隊を集めて資中県に至った。先主が漢中にいたため援軍を送らず、李厳は自ら郡の兵5千だけを率いて討伐し馬秦・高勝らの首を斬った。残党は四散し民籍に復帰した。また越雟の夷の首長高定が軍を挙げて新道県を包囲した際、李厳は駆けつけて救援し賊はすべて敗走した。輔漢将軍を加えられ、郡はそのまま治めた。
永安での重任と改名
- 章武2年〈222年〉、先主は李厳を永安宮に召し尚書令に任じた。章武3年〈223年〉、先主は病篤くなり李厳を諸葛亮とともに遺詔で少主の輔佐に任じ、李厳を中都護として内外の軍事を統率させ永安に留め鎮させた。建興元年〈223年〉、都郷侯に封じられ節を仮せられ光禄勲を加えられた。建興4年〈226年〉、前将軍に転じた。
- 諸葛亮が漢中に出兵しようとし、李厳に後方の事を託そうとして江州に移駐させ、留護軍陳到を永安に駐屯させ皆李厳に統属させた。李厳は孟達への書簡で「私は孔明とともに国家の重責を受け託され、良き伴侶を得たいと思う」と書いた。諸葛亮も孟達への書簡で「事を処理するのが流れるように滞りない、これが正方(李厳)の性分だ」と評した。それほど互いに重んじ合っていた。
- 建興8年〈230年〉、驃騎将軍に遷った。曹真が3道から漢川に向かおうとしたため、諸葛亮は李厳に2万の兵を率いて漢中に来援させた。諸葛亮は李厳の子李豊を江州都督督軍とし李厳の後事を典させるよう上表した。諸葛亮が翌年に出兵するにあたり、李厳に中都護のまま丞相府の事務を管掌させることとし、李厳は名を平と改めた。
軍糧不足による弾劾と失脚
- 建興9年〈231年〉春、諸葛亮が祁山に軍を進めた際、李平(李厳)は輸送業務を督した。夏秋の交、長雨に遭い糧秣輸送が続かず、李平は参軍狐忠・督軍成藩を遣わして諸葛亮に還るよう指図した。諸葛亮はこれを受けて退軍した。李平は軍が退いたと聞くと驚いたふりをして「軍糧は十分あるのに、なぜ帰るのか」と言い、自らの輸送不備の責を逃れ諸葛亮の不進を非難しようとした。さらに後主に「軍はわざと退いたふりをして敵を誘い出そうとしている」と表した。
- 諸葛亮は前後のやりとりの手書きの書簡を全て提出し、李平の言の矛盾が明らかとなった。李平は言い訳が尽き、罪を謝した。諸葛亮は李平を弾劾する上表を行った(要旨):先帝崩御後、李平は治家の小恵にとどまり国を憂える事がなかった。北伐に際し李平の兵で漢中を固めようとしたが、李平は難色を示すばかりで5郡を分けて巴州刺史にすることを求めた。昨年西征を図った際も、李平を漢中の主督にしようとしたところ司馬懿らの開府辟召の話を持ち出した。自分は李平の卑しい魂胆(自分の利のために乗じようとする心)を知っていたので、子の李豊を江州都督とし厚遇して一時的な忠誠を得ようとした。ところが李平は事態が及んでも百般の事を委ねられながら、群臣は皆自分(諸葛亮)の李平への厚遇を怪しんでいた。大事が未定で漢室が傾く中では、李平の短所を伐つより褒めるほうが良いと考えていたが、その心が栄利にあるだけとは思っていても、まさかここまで道理に反するとは思わなかった、事が長引けば禍敗を招く恐れがあると論じた。
- 諸葛亮は公文で尚書に上表し、劉琰・魏延・袁綝・呉壱・高翔・呉班・楊儀・鄧芝・劉巴・費禕・許允・丁咸・劉敏・姜維・上官雝・胡済・閻晏・爨習・杜義・杜祺・盛勃・樊岐ら諸将と連署し、李平の任を解き官職・禄・節伝・印綬・符策を免じ爵土を削ることを求めた。李平は庶民に落とされ梓潼郡に流された。
- 諸葛亮はまた李厳の子李豊への教書で「私と君の父子は力を尽くして漢室を助けようとしてきた、これは神明も知るところだ。都護(李厳)を漢中に任じ東関の重責を君に委ねたのは軽々に決めたことではない。心から感動し終始保てると思っていたのに、なぜ食い違いが生じたのか。昔、楚の卿が幾度も退けられながらも再起した例があるように、道を思えば福がある、これは自然の道理だ。どうか都護を慰め前非を悔い改めさせてくれ。今は任を解かれたが、奴婢賓客百数十人がおり、君も中郎参軍として府にあり、なお上流の家柄と言える。もし都護が心を改め、君と公琰(蔣琬)が誠意を尽くして事にあたれば、道はまた通じ、事態は覆るかもしれない。よくこの誡めを考え、私の心を明らかにせよ、書を前にして長嘆し涙するばかりだ」と述べた。
晩年の悲運
- 建興12年〈234年〉、李平は諸葛亮の死を聞くと発病して死んだ。李平はかつて諸葛亮が自分を再び用いてくれることを期待し、後任者ではそれが叶わないと察していたため、その衝撃で発病したのだという。習鑿歯は管仲が伯氏の駢邑300を奪っても伯氏が死ぬまで怨言を発しなかった故事を「聖人でも難しいこと」としつつ、諸葛亮が廖立を涙させ李厳を憤死させたことは、単なる無怨言以上のことだと評し、水や鏡が公平無私であるがゆえに万物を照らして怨まれないのと同様、諸葛亮の法運用は公平で私心がなく、秦漢以来これほどの用刑の者はいなかったと絶賛している。李厳の子李豊は硃提太守に至った。