三國志卷四十 蜀書十 廖立

抜擢と孫権の評価

  • 廖立は字を公淵といい、武陵臨沅の人。先主が荊州牧を領した際、従事に招かれ30歳に満たずして長沙太守に抜擢された。先主が入蜀し諸葛亮が荊州を鎮める頃、孫権が使者を送って友好を通じ人材を尋ねた際、諸葛亮は「龐統・廖立は楚の良才であり、世を興す事業を助ける者たちだ」と答えた。
  • 建安20年〈215年〉、孫権が呂蒙を遣わして南3郡(長沙・零陵・桂陽)を急襲した際、廖立は脱出して先主のもとに帰った。先主は以前からその才を知り重く責めず、巴郡太守とした。建安24年〈219年〉、先主が漢中王となると廖立を侍中に召した。後主が即位すると長水校尉に転じた。

失脚

  • 廖立は本来自分の才名が諸葛亮に次ぐと考えていたが、李厳らの下位に置かれ常に不満を抱いていた。後に丞相の掾李邵・蔣琬が訪れた際、廖立は次のように述べた(要旨):軍が遠征に出るにあたり、諸君にはよく事情を見極めてほしい。かつて漢中を取らず呉と南3郡を争って結局呉に3郡を渡し、無駄に労役を強いて益がなかった。漢中を失っては夏侯淵・張郃が深く巴に侵入し州を失いかけた。関羽(羽侯)は身を捨てて全滅し、上庸も失うなど一方を丸ごと失った。関羽は勇名を頼み軍紀を無視し意のままに動いたため前後で幾度も軍を失った。向朗・文恭(劉邕)は凡俗な人物で、文恭は治中として綱紀を欠き、向朗はかつて馬良兄弟を聖人と仰いでいたのに今は長史として道理に合った政をしていない。中郎の郭演長(郭攸之)は他人任せの人物で大事を経営するに足りないのに侍中になっている。今は弱い時代なのにこの3人を任用しようとするのは間違いだ。王連は俗物で搾取に走り、百姓を疲弊させ今日の事態を招いたのだ。
  • 蔣琬らはこの発言を諸葛亮に報告した。諸葛亮は廖立を弾劾する上表を行った(要旨):長水校尉廖立は自らを貴しとし群士を臧否し、公然と「国家は賢達を用いず俗吏を用いている」「万人を率いる者は皆小僧だ」と言い、先帝を誹謗し衆臣を貶している。国家の兵が精練され部伍が整っていると人が言うと、廖立は目を怒らせ「取るに足りぬ!」と憤った。このような言動は数え切れない。羊の一匹の乱れが群れ全体を害するように、廖立が高位にありながらこのようでは、中人以下の者が真偽を弁えられようか、と論じた。後主は詔を下し「三苗が政を乱した際、有虞(舜)はこれを流刑に処した、廖立の狂惑を朕は刑を忍びないので不毛の地に速やかに移す」と述べ、廖立を庶民に落とし汶山郡に流した。
  • 廖立は妻子を率いて自ら耕作し身を守った。諸葛亮の死を聞くと涙を流して「私は生涯このまま左衽(夷狄の風俗)の地に終わるのか」と嘆いた。後に監軍姜維が別働隊を率いて汶山を通った際、廖立を訪ねると、その意気は衰えず言論も従前どおりであったという。廖立は結局流刑地で生涯を終え、妻子は蜀に帰った。