三國志卷四十 蜀書十 彭羕

推挙と抜擢

  • 彭羕は字を永年といい、広漢の人。身長8尺、容貌堂々としていた。性格は驕傲で多くを軽んじたが、同郡の秦子敕(秦宓)だけは敬った。彭羕は太守許靖への推薦文で秦宓を推挙した(要旨):殷の高宗が傅説を夢に見て求め、周文王が呂尚を求めた故事、漢の高祖が食其を布衣のまま登用した故事を引き、明府(許靖)が処士秦宓(綿竹の人、山甫の徳と雋生の直を備え、清貧に安んじ仁義の道を歩む高潔な人物)を招致すれば必ず美名が高まるだろうと説いた。

龐統との出会いと江陽左遷

  • 彭羕は州に仕えたが書佐止まりであり、後に州牧劉璋に讒言され、髡鉗の刑を受け徒隷とされた。先主が入蜀し長江を遡上する際、彭羕は先主に取り入ろうと龐統を訪ねた。龐統とは旧知でなく、しかも来客があったが、彭羕は龐統の寝台に上がって横たわり「客が帰ったらゆっくり語ろう」と言った。客が去ると龐統は彭羕の元へ赴いたが、彭羕は先に食事を求め、それから語り合い、二晩三晩と長く滞在した。龐統はこれを大いに評価し、以前から彭羕を知っていた法正もこれに同調し、二人揃って先主に推挙した。先主も彭羕を高く評価し、しばしば軍事の伝達や諸将への指示に用い、使命はよく意にかない、日増しに重んじられた。
  • 成都平定後、先主が益州牧を領すると彭羕は徒歩の身から一躍治中従事に抜擢され、州人の上に立った。その様子は驕り高ぶり、抜擢された恩寵を誇るようになった。諸葛亮は表向きは彭羕を厚遇したが内心では良く思わず、しばしば先主に彭羕の「心が大きく志が広すぎ、安泰を保ちがたい」と密かに進言した。先主は諸葛亮を敬信していたこともあり彭羕の行いを観察するうちに次第に彼を疎んじ、江陽太守に左遷した。

馬超への言及と処刑

  • 彭羕は遠方への異動を聞き不満を抱き、馬超を訪ねた。馬超が「君の才能は主公から厚く遇されており、孔明・孝直(法正)らと並ぶはずなのに、なぜ小郡に出されて本望を失ったのか」と問うと、彭羕は「老いぼれ(劉備を指す)の乱暴狼藉はまた言うまでもない」と答えた。さらに彭羕は馬超に「君が外を、私が内を担えば天下は定めるに足りない」と言った。異郷から帰順した身で常に危惧を抱いていた馬超はこの言葉に大いに驚き、黙って答えなかった。彭羕が去った後、馬超はこの発言を先主に上表し、彭羕は取り調べを受け官に引き渡された。

獄中書と最期

  • 彭羕は獄中から諸葛亮に書を送った(要旨):かつて自分は曹操が暴虐、孫権が無道、劉璋が暗弱であるのに対し、主公(劉備)のみが覇王の器であると考え軽挙妄動に走った。公(劉備)が西方に来た際、法孝直(法正)を通じて自らを売り込み、龐統がその間を取り持って葭萌で公に会い、治世の務め・覇王の義を論じ益州取りの策を建てた。自分は江陽への左遷を悟らず酒に酔って「老」の語を失言してしまった。これは自分の下愚な思慮によるもので、主公は決して老いてなどいない。立業に老若は関係ない、西伯(文王)は90歳になっても衰えぬ志を持っていた。孟起(馬超)に北州で功を立て主公に力を尽くし共に曹操を討つよう勧めたに過ぎず、他意はなかった。龐統と共に主公の事業に尽くすことを誓い合ったが龐統は不幸にも死に、自分は敗れて禍を招いた、自らが招いたことを誰を怨めようか。足下(諸葛亮)は当世の伊尹・呂尚である、どうか主公とよく事を計られたい、天地神明は必ずご覧になっている、と結んだ。
  • 彭羕は遂に誅殺され、37歳であった。