三國志卷四十 蜀書十 劉琰

厚遇と没落

  • 劉琰は字を威碩といい、魯国の人。先主が予州にいた頃から従事に招かれ、劉氏の一族であり風流で談論に長けていたため厚遇され、以来付き従い常に賓客として扱われた。
  • 先主が益州を平定すると固陵太守とした。後主の即位後、都郷侯に封じられ、班位は常に李厳に次ぎ、衛尉中軍師後将軍となり車騎将軍に遷った。しかし国政には関与せず、ただ1千余の兵を領し丞相諸葛亮の諷議に従うのみであった。車馬・服飾・飲食は奢侈を極め、数十人の侍婢は皆音楽をよくし、皆に『魯霊光殿賦』を暗誦させた。
  • 建興10年〈232年〉、前軍師魏延と不和になり言葉が虚誕であったため諸葛亮に叱責された。劉琰は諸葛亮への謝罪の書簡で「自分は性来空虚で操行が薄く、加えて酒に溺れる病があり、先帝の頃からとかく評判が悪く、身が傾きかけていた。しかし公が自分の一心を国に尽くそうとする点を汲み、身中の穢れを扶助し禄位を保たせてくれ今日に至った。近頃酒に酔って言葉に過ちがあったが、寛大に許され理に問われず全うできた。必ず自らを慎み過ちを改め死をもって誓う」と述べた。諸葛亮は劉琰を成都に還らせたが、官位は元のままとした。

最期

  • 劉琰は志を失い心が乱れていた。建興12年〈234年〉正月、劉琰の妻胡氏が入宮して太后に賀を述べた際、太后は特に胡氏を留め、一月してようやく退出させた。胡氏は美貌の持ち主で、劉琰は後主との私通を疑い、卒(兵士)5百人に命じ胡氏を殴らせ、靴で顔を叩くまでしてから離縁した。胡氏はこれを訴え、劉琰は捕らえられ獄に下された。役人は「兵士は妻を殴る者ではなく、顔は靴を受ける場所ではない」と論じ、劉琰は結局市に晒され処刑された。これ以後、大臣の妻や母が朝廷に参内し賀を述べる慣習は絶えた。