三國志卷三十八 蜀書八 許靖

許靖、字は文休、汝南平輿の人。人物評で知られたが不遇の時期が長く、董卓の乱後は交州へ逃れて長年流浪した。のち劉璋に仕えて蜀郡太守となり、劉備の蜀平定後は太傅・司徒に至った。清談を好み後進を導く人格者として重んじられ、章武2年(222年)に没した。

年表(4件)
  • 建安16年211年蜀郡太守王商の後任として蜀郡太守となった
  • 建安17年212年漢が皇子を諸王に立てたことを聞き、老子を引いて曹操の専権をほのめかす評をした
  • 建安19年214年先主(劉備)が蜀を平定すると左将軍長史とされ、漢中王となると太傅とされた
  • 章武2年222年没した

出自と初期

  • 許靖は字を文休といい、汝南平輿の人。従弟の許劭とともに若くして知名で、人物評(人倫臧否)で並び称されたが、二人の私情は不和であった。
  • 許劭は郡の功曹となると許靖を退けて用いなかったため、許靖は馬磨(碾き臼を回す仕事)で自活した。
  • 潁川の劉翊が汝南太守となると許靖を計吏に挙げ、孝廉に察挙し、尚書郎に任じて選挙(人材登用)の事を司らせた。
  • 霊帝が崩じ董卓が政権を握ると、漢陽の周毖を吏部尚書とし許靖とともに天下の士人の進退を謀議させ、汚濁を洗い出し隠れた人材を抜擢させた。潁川の荀爽・韓融・陳紀らを公・卿・郡守に用い、尚書韓馥を冀州牧、侍中劉岱を兗州刺史、潁川張咨を南陽太守、陳留孔伷を豫州刺史、東郡張邈を陳留太守とし、許靖は巴郡太守に遷されたが赴任せず御史中丞に補された。
  • 韓馥らは任地に着くとそれぞれ兵を挙げて京都に向かい董卓誅殺を図った。董卓は怒って周毖に「お前たちの推した者が官に就いた途端に自分を討とうとしている」と難じ、外に引き出して斬った。
  • 許靖の従兄で陳国の相であった許玚も孔伷と共謀したため、許靖は誅を恐れて孔伷のもとへ奔った。孔伷が没すると揚州刺史陳禕を頼り、陳禕が死ぬと呉郡都尉許貢・会稽太守王朗が旧知であったのでその許へ身を寄せた。許靖は親族を収容し扶助し、仁愛の心で世話をした。

交州への流浪

  • 孫策が東の長江を渡って攻め込んだとき、荊揚の士は皆交州に走って難を避けたが、許靖は自ら崖のそばに座し、まず疎遠な近親から乗船させ最後に自分が去った。当時これを見た者はみな感嘆した。
  • 交阯に着くと交阯太守士燮が厚く敬遇した。交州に寓居していた陳国の袁徽は、尚書令荀彧への書簡で「許文休(許靖)は英才偉士で智略は事を計るに足る。流浪して以来、常に人を先にし自らを後にし、九族中外と飢寒を共にした」と称えた。
  • 巨鹿の張翔(字元鳳、『萬機論』の著者)は王命を帯びて交部に使いした際、勢いに乗じて許靖を募り盟約を結ぼうとしたが、許靖は拒んで応じなかった。許靖はこのとき曹操へ長文の書簡を送った。

曹操への書簡

  • 書簡の要旨:世は乱れ禍乱が続く中、臆病者として蛮貊の地に身を竄した十年、慶弔の礼も廃してきたことを述べる。かつて会稽で受け取った曹操の書に旧交を思い出したが、袁術の反乱で道が塞がれ行くに由なかった。正禮(劉繇)が退き袁術軍が進んで会稽が陥落、王朗(景興)が拠を失うと、許靖は袁沛・鄧子孝らと海路南下し交州に至った。東甌・閩・越を経て万里を漂流し、糧を絶ち草を食んで多くの者が死んだ。
  • 南海に着き太守児孝徳と会い、曹操が忠義を発揮し天子を西迎し中岳を巡省したと聞き喜んだ。袁沛・徐元賢と再び装いを整え荊州へ北上しようとしたが、蒼梧諸県の夷越が蜂起して州府が傾覆し道が絶え、徐元賢が殺され老弱も殺された。五千余里を彷徨い疫病に遭って伯母を失い、妻子もほぼ全て失った。生民の艱難をどう語り尽くせようかと嘆く。
  • さらに、交州刺史張津(字子雲、南陽人)を魏の外藩として頼りにできると述べ、荊楚が平定されれば張津経由か益州の親族経由で助けてほしいと訴える。曹操を周公・霍光になぞらえて「国の柱石」と讃え、爵高き者の責の重さを説き、人材登用の要諦(怨みを忘れ賢を挙げよ)を進言し、努力を促す言葉で結んだ。
  • 張翔は許靖が自分になびかなかったことを恨み、許靖が各所に託した書簡を全て捜し出して水に投げ捨てた。

劉璋・蜀漢下の仕官

  • 後に劉璋が使者を送って招くと許靖は蜀に入った。劉璋は許靖を巴郡・広漢太守とした。
  • 南陽の宋仲子(宋忠)は荊州から蜀郡太守王商への書簡で許靖を「当世の指南」と称えた。
  • 劉璋のもとで治中従事となった王商(字文表、広漢人)は、韓遂・馬騰の乱に際し馬騰の子馬超と結ぶことの危険を諫めて劉璋を思いとどまらせるなど賢才として知られ、荊州牧劉表・儒者宋忠も名声を聞いて書を送った。許靖は人物評で知られたが、王商に会い「中華に生まれれば王景興(王朗)にも劣らない」と称賛した。王商は成都の孝子禽堅の墓を表彰し、厳君平・李弘のために祠を建てた。郡を10年治めて官没し、許靖が後任の蜀郡太守となった(建安16年〈211年〉)。
  • 山陽公載記:建安17年〈212年〉、漢は皇子劉熙を済陰王、劉懿を山陽王、劉敦を東海王に立てた。許靖はこれを聞き、老子の「将に歙めんとすれば必ず固く張り、将に取らんとすれば必ず固く与う」を引いて「これは曹操のことを言うのか」と評した。
  • 建安19年〈214年〉、先主(劉備)が蜀を平定すると許靖を左将軍長史とし、先主が漢中王となると太傅とした。先主が皇帝に即位すると、司徒に任じる策命を下し「洪業を継ぎ万国に君臨する不安を抱いており、汝は司徒として五教(父義・母慈・兄友・弟恭・子孝)を寛やかに敷け、徳を秉って怠るな」と命じた。

晩年と王朗との交誼

  • 許靖は70を過ぎても人物を愛し後進を誘い導き、清談を怠らなかった。丞相諸葛亮も彼に対して拝礼した。章武2年〈222年〉に没した。子の許欽は許靖より先に夭折し、欽の子許游は景耀年間〈258-263年頃〉尚書となった。
  • 許靖は若い頃潁川の陳紀に兄事し、陳郡の袁渙・平原の華歆・東海の王朗と親交があった。華歆・王朗・陳紀の子陳羣は魏の初め公輔大臣となり、皆許靖に旧交を温める書を送ったが文が多いため省く。
  • 『魏略』所収の王朗から許靖への書簡(要旨)。