三國志卷三十七 蜀書七 法正
法正、字は孝直、扶風郿県の人。もと劉璋に仕えたが不遇で、張松と結んで劉備を益州に招き入れる内応を進めた。劉備の益州平定・漢中攻略で謀主として活躍し、夏侯淵を破る策を献じた功で漢中攻略の立役者となった。尚書令・護軍将軍となったが、建安二十五年、四十五歳で没した。
出自
- 法正、字は孝直、扶風郿県の人。祖父の法真は清節高名で知られた。父の法衍、字は季謀、司徒掾・廷尉左監を務めた。
- 建安初、天下饑饉の中、正は同郡の孟達とともに劉璋を頼って蜀に入り、新都令、のち軍議校尉に任じられたが重用されず、同郷の讒言にも遭い不遇であった。益州別駕張松と親しく、劉璋では大事を成せないと嘆いていた張松が曹操と離れ劉備と結ぶよう勧める中、正は使者として先主のもとへ赴き、劉璋の弱さと劉備の英略を説いて内応を約した。
劉璋攻めと益州平定への献策
- 劉璋が張魯討伐のため劉備を招いた際も正が使者となり、「劉璋の懦弱に乗じ、張松の内応を得て益州の富と天険を頼れば覇業は掌を返すようなもの」と密かに献策した。劉備は同意し長江を遡って劉璋と涪で会見、葭萌まで北上した後に転じて劉璋を攻めた。
- 劉璋配下の鄭度が焦土戦術(巴西・梓潼の民を涪水以西へ移し倉廩・野穀を焼き払い持久戦に持ち込む策)を進言した際、劉備はこれを憂慮したが、正は「劉璋は決してこの計を用いない」と見抜き、実際に劉璋は民を動かして敵を避けることを拒み鄭度を退けた。
- 成都包囲中、正は劉璋に書を送り、自らの離反を弁明しつつ益州の劣勢(張飛らの進撃、荊州からの援軍、益州の疲弊)を具体的に説き降伏を勧めた。建安十九年、成都包囲のさなか蜀郡太守許靖が城を越えて降ろうとして発覚し不問に付されたが、劉璋降伏後、劉備は許靖の名声のみで実がないとして冷遇しようとした。正は「許靖の浮名は天下に流布しており、礼遇しなければ主公が賢を賤しむと見られる」と諫め、劉備は靖を厚遇するようになった。
蜀郡太守としての専横と諸葛亮の評
- 正は蜀郡太守・揚武将軍となり、都畿を統括し謀主となった。一飯の恩義にも睚眦の怨みにも必ず報い、自分を害した者を数人擅殺した。ある者が諸葛亮に「法正の専横を主公に諫めるべき」と勧めたが、亮は「主公が公安にあった頃、北は曹操、東は孫権、近くは孫夫人の変事さえ恐れねばならぬ苦境にあった。法孝直の輔翼あってこそ自在に振る舞えるようになったのだ、彼を抑えることなどできようか」と答えた。
漢中攻略への献策と最期
- 建安二十二年、正は劉備に「曹操は張魯を降し漢中を定めながら巴・蜀を図らず夏侯淵・張郃を残して自ら北還した、これは必ず内憂があってのことだ。淵・張郃の器量では我が将帥に及ばぬゆえ、討てば必ず勝てる」と進言した。劉備はこれに従い漢中へ進軍、正も随行した。建安二十四年、劉備が沔水を渡り定軍・興勢に布陣すると夏侯淵が争いに出て、正が「今こそ撃つべし」と進言し、黄忠が高地から鼓譟して攻め夏侯淵を大破・斬首した。曹操は正の献策と聞き「劉備がこれを企てられるとは思えぬ、必ず誰かの入れ知恵だ」と述べたという。
- 劉備が漢中王に立つと正は尚書令・護軍将軍となった。翌年、四十五歳で没した。劉備は涙を流すこと数日、翼侯と諡した。子の法邈は関内侯を賜り奉車都尉・漢陽太守に至った。諸葛亮とは好尚を異にしながらも公義で結び、亮は常に正の智謀を評価した。
- 劉備が関羽の恥をそそぐため呉への東征を図った際、群臣の諫めをすべて聞かなかったが、章武二年に大敗し白帝に退いた後、亮は「法孝直が生きていれば主上を制し東征を止めさせただろう、たとえ東征しても大敗には至らなかったはずだ」と嘆いたという。また、劉備が曹操との戦いで不利な状況にもかかわらず退却を拒み矢が雨のように降る中、正が自ら劉備の前に進み出て「明公が矢石に当たられるのなら、小人が何をためらいましょう」と言うと、劉備はようやく「孝直よ、共に退こう」と応じたという。
史論(評)
- 陳寿評す。龐統は人物評論を好み経学と思慮に富み、当時荊楚では高俊と称された。法正は成敗を見通す明があり奇策に長けたが、徳操によって称えられる人物ではなかった。魏の臣に比するなら、統は荀彧の弟分、正は程昱・郭嘉の類というべきであろうか。