三國志卷三十八 蜀書八 麋竺

出自と先主への貢献

  • 麋竺は字を子仲といい、東海朐の人。祖先代々商売で富み、僮客万人、財産巨億であった。
  • 後に徐州牧陶謙に召され別駕従事となった。陶謙の没後、麋竺はその遺命を奉じ先主を小沛に迎えた。
  • 建安元年〈196年〉、呂布が先主の留守を突いて下邳を襲い、先主の妻子を虜にした。先主が軍を広陵海西に転じると、麋竺は妹を先主の夫人として進上し、奴客2千人、金銀貨幣を軍資として助けた。困窮していた先主軍はこれによって立ち直った。
  • 後に曹操は麋竺を嬴郡太守に推挙する上表を行った(要旨:泰山郡は広く旧来悍民が多いため5県を分けて嬴郡とし、忠貞な偏将軍麋竺を太守として吏民を撫慰させたいというもの)。
  • 弟の麋芳は彭城相であったが共に官を辞して先主に従った。先主が荊州に赴く際、麋竺を先に劉表への使者とし、左将軍従事中郎とした。益州平定後は安漢将軍に任じ、軍師将軍(諸葛亮)の上位に班した。麋竺は雍容敦雅な人柄だが軍事の才には長じておらず、上賓の礼で遇されて統率の任には就かなかったが、賞賜の厚さは並ぶ者がなかった。

麋芳の裏切りと晩年

  • 麋芳は南郡太守として関羽と共に事にあたったが私情で不和となり、孫権に叛いてこれを迎え入れ、関羽の敗北を招いた。
  • 麋竺は自ら縛って罪を請うたが、先主は「兄弟の罪は互いに及ばない」と慰め、従来通り厚遇した。麋竺は恥辱と憤りから病を発し、1年余り後に没した。子の麋威は虎賁中郎将に至り、威の子麋照は虎騎監となった。麋竺から麋照まで代々弓馬に長け射御に優れたという。