三國志卷三十五 蜀書五 諸葛亮傳第五 諸葛亮(字孔明)
諸葛亮、字は孔明、琅邪郡陽都の人(?–234年)。臥龍と称された隠士だったが劉備に三顧の礼で迎えられ、天下三分の計(隆中対)を説いて蜀漢建国を支えた軍師。丞相として劉備の後事を託され、南征で南中を平定し、建興五年以降たびたび北伐を行ったが、建興十二年(234年)五丈原の陣中で没した(享年五十四、忠武侯と諡された)。嫡子とした甥の諸葛喬、実子の諸葛瞻とその子孫、亮の元部下董厥の後日談も伝わる。
年表(15件)
- 建安十六年211年関羽と共に荊州を守り、劉備の益州平定を支える
- 二十六年(章武元年、)221年劉備の帝位即位を勧める
- 章武元年221年丞相に任じられ、録尚書事・仮節となる
- 章武三年223年劉備の遺命を受け、後事を託される(白帝城の託孤)
- 建興元年223年武郷侯に封じられ益州牧を兼ね、呉との講和を結び直す
- 建興三年225年南征に発ち、孟獲を七縦七禽して南中を平定
- 建興五年227年漢中に北駐し出師の表を上疏、北伐を開始
- 建興六年228年馬謖が街亭で大敗、自ら丞相位を三等降格する
- 建興七年229年陳式に武都・陰平を攻略させ、丞相位に復す
- 建興九年231年祁山に再出兵、撤退中に張郃を射殺
- 建興十二年234年五丈原で司馬懿と対陣中、八月に陣中で病没(享年五十四)
- 建興六年228年嫡子とした甥の諸葛喬が二十五歳で没する
- 景耀四年261年諸葛瞻が行都護衛将軍となり、董厥と共に尚書事を平める
- 景耀六年冬263年鄧艾の侵攻に抗戦し綿竹で戦死(享年三十七、長子尚も戦死)
- 咸熙元年264年諸葛瞻の次子京、攀の子顕らが河東へ移される
出自と青年期
- 諸葛亮、字は孔明、琅邪郡陽都の人。前漢の司隸校尉諸葛豐の後裔にあたる。父の諸葛珪(字君貢)は漢末に太山郡丞を務めた。
- 亮は早くに父を失い、叔父の諸葛玄に養われた。玄は袁術に豫章太守に任じられ、亮と弟の諸葛均を連れて赴任したが、漢朝が朱皓を後任に選んだため、荊州牧劉表を頼って身を寄せた。玄の死後、亮は隆中(南陽鄧県、襄陽城西二十里)で自ら耕作しながら「梁父吟」を好んで詠じた。
- 身長八尺、常に自らを管仲・楽毅になぞらえたが、世間はこれを認めなかった。ただ博陵の崔州平、潁川の徐庶(字元直)だけは深く交わり、その言を信じた。
劉備との出会い――三顧の礼
- 劉備が新野に駐屯していたころ、徐庶が劉備に「諸葛孔明は臥龍である」と推挙した。
- 劉備は自ら三度草廬を訪ねてようやく亮に会い、人払いのうえ天下の計を問うた。亮は答えて、曹操は既に百万の衆を擁し天子を挟んで諸侯に令しているため争ってはならないこと、孫権は江東に三代続き民心を得ているため援けとすべきで奪ってはならないこと、荊州は用武の地でありながら主の劉表がこれを守りきれず好機であること、益州は険阻沃野の天府の土であり劉璋は暗弱であることを説き、荊州・益州を併せ持ち、西は諸戎と和し南は夷越を撫で、外は孫権と結び内は政治を修め、天下に変事あらば荊州・益州の両路から北伐すれば覇業は成り漢室は再興できると説いた(いわゆる隆中対)。劉備は「善し」と応じ、以後日ごとに亮との親交を深めた。
- 関羽・張飛がこれを喜ばなかったが、劉備は「孤に孔明あるは猶魚に水あるがごとし」と言って二人をなだめた。
劉琦への助言、劉表の死と赤壁の戦い
- 劉表の長子劉琦も亮を重んじた。琦は継母に疎まれる境遇を憂い、亮に自安の策を求めたが亮は初め応じなかった。琦が梯子を外して密室に誘い切に問うたとき、亮は「申生は内に在りて危うく、重耳は外に在りて安し」と答え、琦はこれを悟って自ら外任(江夏太守)を求めて難を逃れた。
- まもなく劉表が没し、子の劉琮は曹操の南征を聞いて降伏を申し出た。樊にいた劉備はこれを知り南に軍を退いたが、当陽の長阪で曹操軍に追い付かれ大敗、随行していた徐庶の母は捕らえられた。徐庶は劉備に別れを告げ曹操の下へ赴いた。
- 劉備は夏口に至り、亮は「事急なり、孫将軍に救援を求めるべし」と進言し自ら使者となった。柴桑で日和見していた孫権を、亮は曹操の脅威と劉備の意地を説いて動かし、孫権は同盟を決断、周瑜・程普・魯粛らに水軍三万を与えて派遣した。
- 曹操は赤壁で敗れ鄴へ退き、劉備は江南を接収、亮を軍師中郎将とし零陵・桂陽・長沙三郡の租税徴収を統括させ軍需を賄わせた。
荊州経営から益州平定へ
- 建安十六年、益州牧劉璋が法正を遣わして劉備を迎え、張魯討伐を求めた。亮は関羽とともに荊州を守った。劉備は葭萌から引き返して劉璋を攻め、亮は張飛・趙雲らと長江を遡って諸郡を平定し、劉備とともに成都を包囲、これを平らげた。亮は軍師将軍となり左将軍府の事務を統括、劉備の外征中は常に成都を守り兵糧を整えた。
- 二十六年(建安の紀年を継続した年数、事実上章武元年〈221年〉に当たる)、群臣が劉備に帝号を勧めたが劉備は許さなかった。亮は後漢の光武帝の即位に際する故事(呉漢・耿弇らの勧進と耿純の諫言)を引いて即位を勧め、劉備はついに帝位に就いた。
- 劉備は亮を丞相に任じる策を下し(詔の要旨:家業を受け継ぎ、丞相の輔弼に期待する旨)、亮は録尚書事・仮節となった。張飛の死後は司隷校尉を兼任した。
劉備の遺命――白帝城の託孤
- 章武三年春、劉備は永安で病篤くなり、亮を成都から呼び寄せて後事を託した。「君の才は曹丕の十倍、必ず国を安んじ大事を定めるだろう。もし劉禅が輔けるに足るなら輔けよ、もし不才ならば君自ら取るがよい」と告げると、亮は涙して忠節を尽くし死をもって続けると誓った。劉備はまた後主に詔して「汝は丞相と事を共にし、父のごとく事えよ」と命じた。
建興元年――南中の危機と対呉外交
- 建興元年、亮は武郷侯に封じられ開府治事、まもなく益州牧を兼ねた。政事の大小はすべて亮が決した。南中諸郡がことごとく叛いたが、大喪直後であったため出兵を控え、まず呉に使者を送って講和を結び直した。
- この年、魏の華歆・王朗・陳羣・許芝・諸葛璋らが天命人事を説いて蜀漢に帰順を促す書を送ってきたが、亮は返書せず「正議」を著し、王莽・曹丕の簒奪を項羽の故事になぞらえて非とし、光武帝が寡兵で王莽の大軍を昆陽で破った例を引いて、正道による討伐に衆寡は関係ないと論じた。
南征――孟獲の七縦七禽
- 建興三年春、亮は南征に発ち、劉禅は金鈇鉞・曲蓋・羽葆鼓吹・虎賁六十人を賜った。その秋にはすべて平定し、軍資は南中から得て国は富んだ。
- 南中の実力者孟獲を生け捕っては七度放ち七度捕えて心服させ、ついに滇池に至って南中を平定した逸話が伝わる。亮は現地の首長をそのまま用い、漢人官吏や駐屯兵を残さなかった。理由として、駐兵には食糧供給の困難、夷人の父兄を殺した直後で駐兵のみでは禍患を招く恐れ、夷人が過去の罪を疑って信用しないことの三点を挙げた。
建興五年――北伐発起と出師の表
- 建興五年、亮は諸軍を率いて漢中に北駐した。出発に際し上疏し(いわゆる前出師表)、先帝劉備の創業半ばの崩御と天下三分・益州疲弊の危機を述べ、宮中・府中の賞罰を一体とすべきこと、郭攸之・費禕・董允ら侍中侍郎の忠実さ、将軍向寵の軍事的手腕を評価して重用を勧め、先漢の興隆・後漢の傾頹の教訓(賢臣を親しみ小人を遠ざけるべきこと)を説いた。
- 自らの経歴として、南陽で躬耕していたところを劉備に三度草廬に迎えられ、感激して馳駆を誓ったこと、劉備没落後の困難な時期に任を受けてから二十一年が経ったこと、五月に瀘水を渡り不毛の地に深く分け入って南征したこと、今や兵甲が足りたので中原を平定し漢室を復興させる決意を述べ、郭攸之・費禕・董允には諫言の任を、自らには討賊の責任を課し、それぞれ果たせなければ罪を問うようにと願い出た。
街亭の敗戦と自貶
- 建興六年春、亮は斜谷道から郿を取ると見せかけ趙雲・鄧芝に箕谷で疑兵をさせ、自らは祁山を攻めた。軍容は整い、南安・天水・安定の三郡が魏に叛いて呼応し関中は震撼した。
- 魏の明帝は自ら長安に出向いて張郃に迎撃させた。亮は馬謖を先鋒として街亭で戦わせたが、馬謖は亮の指図に背いて大敗した。亮は西県千余家を連れて漢中に帰還、馬謖を斬って軍紀を示すとともに、自ら上疏して丞相の任を三等降格するよう求めた。劉禅はこれを容れ、亮は右将軍・行丞相事となった。
- 亮は敗因を「兵の寡少ではなく将たる自分一人にある」として将兵の罰よりも自省を重んじ、軍を鍛え直した。孫権が魏の曹休を破り関中が手薄になったのを知り、十一月に再び北伐を上奏した(いわゆる後出師表。真偽については亮集になく張儼『默記』所収と注記される)。その要旨は、漢賊は両立しえず座して滅びを待つより討つべきこと、これまでの困難な戦例(高帝・劉繇・王朗・曹操の苦戦)を引いて自らの北伐が無謀ではないこと、漢中着任以来一年の間に趙雲・陽群・馬玉・閻芝・丁立・白壽・劉郃・鄧銅ら及び屯将七十余人、賨・叟・青羌の散騎・武騎千余人を失った窮状、そして「鞠躬儘力、死して後已む」の覚悟を述べたものである。
陳倉・祁山への出兵
- その冬、亮は再び散関に出て陳倉を包囲したが、曹真の防衛と食糧不足のため撤退した。魏の王双がこれを追撃したが、亮は迎撃してこれを破り斬った。
- 建興七年、亮は陳式に武都・陰平を攻めさせ、自ら建威に出て魏の郭淮を退かせ、二郡を平定した。劉禅は詔を下し街亭の咎から丞相位を降りていた亮を再び丞相に復した。
- この年、孫権が皇帝を称した。群臣の多くは呉との断交を主張したが、亮は「呉と事を構えれば魏に利するだけ」として陳震を遣わし孫権の即位を祝賀し、同盟を維持した。
祁山再征と司馬懿との対陣
- 建興九年、亮は再び祁山に出、木牛で兵糧を輸送した。魏では曹真の病により司馬懿(宣王)が西方の指揮を任され、張郃・費曜・戴陵・郭淮らを督した。亮は郭淮・費曜らを破り麦を刈り取ったが、司馬懿とは険を頼んで対陣するのみで交戦に至らず撤退した。
- 司馬懿が追ってきたが、亮は五月、張郃に南囲を攻めさせた隙に魏延・高翔・呉班に迎撃させて大破し、甲首三千級、玄鎧五千領、角弩三千百張を得た。糧が尽きて退く際、追撃してきた張郃を射殺した。
五丈原の戦いと死
- 建興十二年春、亮は全軍を率いて斜谷を出、流馬で輸送し武功五丈原に拠り、司馬懿と渭水南岸で対陣した。兵糧が続かないことを憂い、屯田によって長期駐留の基盤を築き、耕作する兵と渭水岸の住民が入り交じっても軍紀は乱れなかった。
- 亮はしばしば挑戦したが、司馬懿は表を上げて固く戦いを求めるふりをして応じず、実際には自軍を抑えるための示威に過ぎなかった。亮の派遣した使者に司馬懿は政務の煩雑さのみを問い、亮の激務と小食を聞いて「亮は間もなく死ぬだろう」と語ったという。
- 対陣百余日、その年八月、亮は病に倒れ陣中に没した。享年五十四。楊儀らは軍を整えて撤退し、司馬懿は追撃したが姜維が旗を返して迫るふりをすると退いた。谷に入ってから初めて喪を発した。退却後の司馬懿は亮の陣を検分し「天下の奇才なり」と嘆じたという。世に「死せる諸葛、生ける仲達を走らす」の諺が伝わる。
葬礼と諡
- 亮は遺言で漢中の定軍山に山を利用して葬るよう命じ、棺が入る程度の塚とし時服のまま葬るよう望んだ。劉禅は詔策を下し、亮の輔弼の功と北伐の武威を称え、使持節左中郎将の杜瓊を遣わして丞相武郷侯の印綬を追贈し、「忠武侯」と諡した。
- 亮は生前、後主に「成都に桑八百株、薄田十五頃があり子弟の衣食に不足はない。外任にある自分の衣食はすべて官に頼り、蓄財して余分を残すことはない」と上表しており、没後もその言葉どおりであった。
人物・才能
- 亮は工夫を凝らすことに長じ、連弩を改良し(元戎と称し、鉄矢は長さ八寸で一弩に十矢を同時発射できた)、木牛・流馬という輸送具を考案し、兵法を演繹して八陣図を作るなど、いずれも要を得ていた。
- 亮の教令・上奏の文には見るべきものが多く、別に一集としてまとめられた。
諸葛氏集の編纂と陳寿の上表
- 目録は「開府作牧第一・権制第二・南征第三・北出第四・計算第五・訓厲第六・綜覈上第七・綜覈下第八・雑言上第九・雑言第十・貴和第十一・兵要第十二・伝運第十三・与孫権書第十四・与諸葛謹書第十五・与孟達書第十六・廃李平第十七・法検上第十八・法検下第十九・科令上第二十・科令下第二十一・軍令上第二十二・軍令中第二十三・軍令下第二十四」の二十四篇、あわせて十万四千百十二字。
- 陳寿は、荀勗・和嶠の奏を受けて諸葛亮の遺文を整理・編纂した経緯を上表し、重複を削り類ごとにまとめて二十四篇としたと述べた。
- 続けて陳寿自身による短い伝評(亮の生涯要約)が付され、劉備との出会いから丞相就任、南越平定・北伐、法制の整備、信賞必罰による治世の様子(道に落ちた物を拾わず強者が弱者を侵さない風化)が改めて要約されている。
- また、亮の志は中原制覇にあったが、軍事的な奇策よりも民政の才に優れ、対する魏に人材が揃っていたため大業は成らなかったとし、蕭何が韓信を推し管仲が王子城父を挙げた故事に亮を比している。
- 青龍二年(234年、蜀の建興十二年に相当)の北伐と病没後、梁・益の民が亮を偲び続けたことを甘棠の詩・鄭人の子産への歌に例え、また亮の文章が飾らず丁寧に過ぎるとの評に対しては、皋陶が舜・禹と語ったのに対し周公は群下に誓ったため文体が異なるのと同様、亮も凡百の相手に語ったためだと弁護している。
- 末尾には陳寿の上表文(泰始十年〈274年〉二月一日、平陽侯相陳寿上)が付されている。
諸葛喬
- 喬は字を伯松、亮の兄諸葛瑾の次子(もとの字は仲慎)。兄の諸葛恪(元遜)とともに名があったが、才は兄に及ばぬものの人柄は勝るとされた。亮に子がなかったため瑾が孫権に願い出て喬を西に送り、亮の嫡子とした。駙馬都尉に任じられ亮に従って漢中に赴いた。亮は兄瑾への書で、諸将の子弟同様に喬にも輸送の任を分担させ栄辱を共にさせたい旨を記している。二十五歳、建興六年に没した。子の攀は行護軍翊武将軍に至ったが早世した。諸葛恪が呉で誅殺され子孫が絶えたため、攀は瑾の後継として諸葛恪の家系を継いだ。
諸葛瞻
- 瞻は字を思遠。建興十二年、亮が武功に出陣した際、兄瑾への書で「瞻は八歳になり聡明だが早熟に過ぎるのを危惧する」と記している。十七歳で公主を娶り騎都尉、翌年羽林中郎将、のち射声校尉・侍中・尚書僕射を歴任し軍師将軍を加えられた。書画に巧みで記憶力に優れ、蜀人は亮を慕うあまり瞻の善政でないものまで瞻の功と噂した。
- 景耀四年、行都護衛将軍となり董厥とともに尚書事を平めた。景耀六年冬、魏の鄧艾が陰平から景谷道を経て侵攻すると、瞻は涪に至るも先鋒が敗れ綿竹に退いた。鄧艾の降伏勧誘(琅邪王に取り立てるとの誘い)の使者を斬って抗戦したが大敗し、三十七歳で戦死した。長子の尚も同じく戦死した。子の尚は「早く黄皓を斬らなかったことで国を傾けた、生きて何とする」と嘆いて敵陣に馳せ入り死んだと『華陽国志』にある。次子の京、攀の子顕らは咸熙元年に河東へ移された。孫の京は郿県令となり、山濤の上表により宮中の役職に推挙され、最終的に江州刺史に至った。
董厥
- 董厥はもと丞相府の令史で、亮から「董令史は良士である」と評された。主簿に転じ、亮の死後は尚書僕射、陳祗に代わって尚書令、さらに大将軍として台事を平め、義陽の樊建(字長元)がその後を継いだ。延熙年間、校尉として呉に使したが、病篤い孫権に会えなかった。孫権は諸葛恪に樊建の評を尋ね、「才識は宗預に及ばぬが人柄は勝る」と答えている。
- 瞻・厥・建が国政を統べていたころ、姜維は外征を繰り返し、宦官黄皓が権柄を弄したが、三人ともこれを匡せなかった。異説として、瞻・厥らが姜維の戦功なき出兵を憂い益州刺史に降格し兵権を奪おうとしたとも伝わるが、これは陳寿が瞻に辱められた私怨によるとの弁もある。ただし樊建だけは黄皓と親しまなかった。
- 蜀滅亡の翌年春、厥・建はともに洛陽に赴き相国参軍となり、秋には散騎常侍を兼ねて蜀へ慰労の使者となった。樊建は給事中となり、晋の武帝に諸葛亮の治国を問われ「過ちを認めて改め、功を誇らなかった。賞罰の信は神明を感じさせるほどであった」と答え、武帝はこれを称賛、鄧艾の冤罪について樊建が諫めると武帝は詔を発してこれを審理させた。
史論(評)
- 陳寿評す。諸葛亮は丞相として、百姓を安んじ礼法の規範を示し、官職を簡約にし権制に従い、誠意を開いて公道を布いた。忠を尽くし時に益ある者は仇でも必ず賞し、法を犯し怠慢な者は近親でも必ず罰し、罪を認め心情を明かす者は重罪でも必ず赦し、詭弁で飾る者は軽罪でも必ず誅した。善は微細でも賞し悪はわずかでも貶め、事務に精通し名実を一致させ虚偽を許さなかった。国内はみな畏れながらも慕い、刑政は厳しくとも怨む者がなかったのは、公平な心と明らかな勧戒によるものである。治世の才として管仲・蕭何に亜ぐ人物といえるが、連年の出兵にもかかわらず大功を成せなかったのは、臨機応変の将略が長所ではなかったためであろう。
- 裴松之は続けて、袁子(袁準)・張儼『默記』・『蜀記』所引の李興の碑文を引用する。
- 袁子は、諸葛亮が張飛・関羽ら武人の中で群臣・民心を得た理由、法の厳格さにもかかわらず人心を得た統治、用兵の巧みさ(出入自在で民を害さず)、死後数十年経ても民が慕い続ける様を評した。また祁山出兵で三郡が呼応した際に速攻しなかった理由について、蜀軍の兵は精鋭だが良将が少なく敵情を測りかねていたためとし、亮の治世は名より実を重んじ、遠大な志があったからこそ細事にも整然と気を配ったと論じた。
- 張儼『默記』は、諸葛亮と司馬懿を比較し、狭小な蜀の地から中原に迫った亮の功績を高く評価し、広大な魏の地を持ちながら守りに徹した司馬懿より優れると論じた上で、亮の北伐は無益な軍事行動との批判に対しては、湯・文王の例を引き弱者が征伐によって天下を得た故事、楽毅が弱燕から斉を破った故事を挙げ、蜀漢と呉の連携による勝算を擁護した。
- 『蜀記』には、晋の劉弘が隆中の亮の旧宅を訪ね、太傅掾犍為の李興に碑文を撰ばせた記事があり、亮の徳と功業、天下三分の立役者としての称賛が長文で引用されている。