三國志卷三十四 二主妃子傳第四 劉璿
後主の太子
- 後主の太子璿、字は文衡。母の王貴人はもと敬哀張皇后の侍女であった。延熙元年正月の策には、古来帝王が嗣を立てるのは常道であるとして璿を皇太子とし、丞相事を代行する左将軍向朗を遣わして印綬を授けさせる旨が述べられた。時に年十五。景耀六年(263年)冬、蜀が亡んだ。咸熙元年正月、鍾会が成都で乱を起こし、璿は乱兵に殺された。
史論
- 評に言う。『易』に「夫婦有りて後に父子有り」とあるように、人倫の始まりであり恩紀の隆んなるものはこれに勝るものはない。それゆえこれを紀録し、一国の体制を究めるものとする。