三國志卷三十六 蜀書六 關羽
關羽、字は雲長、河東郡解県の人。若くして劉備に従い、張飛と共に古参の将として仕えた。曹操の下で捕らえられた際は厚遇に応えて顔良を討ち、恩義を果たしてから帰参した。荊州を統括し、樊城で曹仁を攻め于禁の軍を降すなど威を華夏に震わせたが、孫権の奇襲を受け建安二十四年、子の関平と共に斬られた。
出自と劉備への随従
- 関羽、字は雲長、もとの字は長生。河東郡解県の人。亡命して涿郡に至った。劉備が郷里で徒衆を集めると、羽は張飛とともにその侮りを防いだ。劉備が平原相となると羽・飛は別部司馬として部曲を分統し、劉備と寝床を同じくするほど恩は兄弟のようであった。人が集う席でも二人は終日侍立し、艱険を厭わず劉備に付き従った。
- 劉備が徐州刺史車冑を襲殺した際、羽に下邳城を守らせ太守事を代行させた。
曹操の下での厚遇と帰参
- 建安五年、曹操が東征すると劉備は袁紹の下へ奔ったが、羽は曹操に捕らえられ偏将軍に任じられ厚く遇された。袁紹が大将軍顔良に白馬の東郡太守劉延を攻めさせると、曹操は張遼と羽を先鋒とし、羽は顔良の麾蓋を望んで単騎で衆中を突き斬首、白馬の囲みを解いた。曹操は羽を漢寿亭侯に封じた。
- 曹操は羽の心中に劉備への恩義があると察し、張遼に問わせた。羽は「曹公の厚遇は知るが、劉将軍の厚恩に共に死すと誓った。留まることはできぬが、必ず効を立てて曹公に報いてから去る」と答えた。曹操はこの義を認め、羽が顔良を討ち去ることを察しつつも厚く賞賜した。羽は賜品をすべて封じ、書を残して劉備の下へ奔った。左右が追撃を求めたが曹操は「彼はおのおのその主のためだ、追うな」と止めた。
荊州経営と樊城攻め
- 劉備は劉表の下に身を寄せた後、劉表の死・曹操の荊州平定を受けて樊から江陵へ渡ろうとし、羽に別に船数百艘を率いて江陵で合流させた。曹操軍は当陽長阪まで追ったが、劉備は漢津へ逃れ羽の船と合流、夏口に至った。
- 孫権の援軍を得て曹操を退けた後、劉備は江南諸郡を接収し、羽を襄陽太守・蕩寇将軍として江北に駐屯させた。劉備が益州を平定すると羽に荊州の統括(董督荊州事)を委ねた。馬超の降伏を聞いた羽が諸葛亮に人物比較を尋ねた際、亮は「馬超は文武を兼ね一世の傑物だが、なお髯(羽の美髯を指す愛称)には及ばない」と答え、羽は大いに喜んだ。
- 羽はかつて流れ矢を左腕に受け、雨天のたびに骨まで痛んだ。医者が毒を除くには骨を削るしかないと言うと、羽は諸将との酒宴の最中に腕を差し出させて肉を割かせ、血が盤に満ちる中でも談笑しながら酒肉を楽しんだという。
樊城の戦いと関羽の死
- 建安二十四年、劉備は漢中王となり羽を前将軍・仮節鉞に任じた。この年羽は曹仁を樊で攻め、曹操は于禁を援軍に送った。秋の大霖雨で漢水が氾濫し、于禁の七軍は水没して降伏、羽はさらに龐徳を斬った。梁・郟・陸渾の群盗まで羽の印号を受けるほどで、羽の威は華夏を震わせた。曹操は許都遷都を議したが、司馬懿・蔣済の勧めで孫権を動かし背後を突かせる策を採った。
- かねて孫権が子のために羽の娘を求めた際、羽はその使者を罵り婚を許さず、孫権は激怒していた。羽は樊を包囲する間、南郡太守糜芳・将軍士仁の後方支援が不十分なことに怒り「帰還後に処罰する」と告げたため二人は恐れ、孫権に密かに投降した。さらに曹操の援軍徐晃が到着し、羽は交戦するも支えきれず退いた。
- 孫権は既に江陵を制圧し羽の将兵の妻子を虜にしており、羽軍は瓦解した。孫権は将を遣わし羽と子の関平を臨沮で斬った。
諡と子孫
- 羽には壮繆侯の諡が贈られた。子の関興が跡を継ぎ、字は安国、若くして名声があり丞相諸葛亮に重んじられたが、侍中・中監軍となって数年で没した。子の関統が跡を継ぎ公主を娶り虎賁中郎将に至ったが、子がなく興の庶子関彝が継いだ。