三國志卷三十六 蜀書六 張飛

張飛

  • 張飛、字は益德、涿郡の人。若くして関羽とともに劉備に仕え、羽より年少のため兄事した。劉備が曹操に従い呂布を破った後、曹操は飛を中郎将とした。劉備が曹操から離れ袁紹・劉表に依った後、劉表の死を受けて曹操が荊州に入ると劉備は江南に逃れた。曹操が当陽の長阪で追いつくと、劉備は妻子を捨てて逃げ、飛に二十騎で殿を務めさせた。飛は橋を落とし「身は是れ張益徳なり、来たりて共に死を決せよ」と叫び、敵は誰も近づけず難を逃れた。
  • 劉備は江南平定後、飛を宜都太守・征虜将軍とし新亭侯に封じ、のち南郡に移した。劉備の入蜀・劉璋攻めに際し飛は諸葛亮らと長江を遡り諸郡を平定、江州で劉璋の将巴郡太守厳顔を破り生け捕った。飛が「大軍が来たのになぜ降らず抗戦したか」と詰ると、厳顔は「我が州には断頭将軍あれど降将軍なし」と答え、怒った飛が斬ろうとすると顔色一つ変えなかったため、飛はこれに感じ入り釈放して賓客とした。益州平定後、飛は巴西太守を兼ねた。
  • 曹操配下の張郃が巴西の民を漢中へ移そうとして進軍すると、飛は五十余日対峙した末に間道から奇襲して大破し、張郃は山を伝って十余騎で逃げ帰った。劉備の漢中王即位で飛は右将軍・仮節、章武元年には車騎将軍・司隸校尉・西郷侯に進み、詔策で忠毅を召虎(周の召公虎)になぞらえ称えられた。
  • 飛は関羽に次ぐ勇猛で知られたが、士卒には優しく士大夫には驕った関羽と対照的に、飛は君子を敬い小人には厳しかった。劉備はしばしば「刑殺が過ぎ、日々兵を鞭打ちながらそれを側に置くのは禍の元だ」と戒めたが改まらなかった。劉備の呉征討に際し閬中から江州へ向かう途上、部将張達・范彊に殺され、二人はその首を持って孫権の下へ逃げた。劉備は飛の都督から上表が届いたと聞き「ああ、飛は死んだのだ」と悟った。桓侯と諡された。長子の張苞は早世、次子の張紹が跡を継ぎ侍中尚書僕射に至った。苞の子張遵は尚書となり、諸葛瞻に従って綿竹で鄧艾と戦い戦死した。