三國志卷二十八 王毌丘諸葛鄧鍾傳第二十八 毌丘儉

毌丘儉(字は仲恭、河東聞喜の人)は武威太守毌丘興の子。幽州刺史として遼東の公孫淵討伐や高句麗遠征で功を挙げ安邑侯に進封された。揚州都督として文欽と結び、正元二年に司馬師打倒の兵を挙げたが敗れ、逃走の末に討たれた。文欽は呉へ亡命し厚遇されたが、他の呉将には憎まれた。

年表(6件)
  • 青龍年間幽州刺史・度遼将軍として遼東の公孫淵と戦い、烏丸勢力を降す
  • 正始年間玄菟から高句麗を討ち、王都丸都を陥落させる
  • 正始六年再び高句麗を討ち、玄菟太守王頎に沃沮を越え粛慎氏の南界まで追わせる
  • 正元二年正月彗星の出現を機に文欽とともに司馬師打倒の兵を挙げる
  • 正元二年敗れて逃走し、安風津都尉の部民に射殺される
  • 太和年間文欽、五営校督となるが性格剛暴で弾劾されることが多い

出自と父の功績

  • 毌丘儉、字は仲恭、河東聞喜の人である。父の毌丘興は黄初年間に武威太守となり、反乱者を討ち服従しない者を懐柔して河右(河西)の交通を開き、その名は金城太守蘇則に次いだ。賊の張進や反乱胡族の討伐に功があり高陽郷侯に封ぜられた。『魏名臣奏』所収の雍州刺史張既の上表には、毌丘興が黄華・張進の乱に際し危難に臨んでも動ぜず将校・民夷に禍福を説き、精兵を率いて張掖を制圧し領太守杜通・西海太守張睦を救出し、張掖の番和・驪靬の吏民や胡族を安撫し尽力させた功績が詳しく称えられている。
  • 入朝して将作大匠となった。毌丘儉は父の爵を襲い平原侯文学となった。明帝の即位後、尚書郎、羽林監に遷り、東宮時代からの旧縁で厚く親任された。洛陽典農に出た際、農民を徴用して宮室を造営することが行われたため、毌丘儉は「天下で急ぎ除くべきは二賊(蜀・呉)、急ぎ務めるべきは衣食である。二賊を滅ぼさぬまま士民が飢え凍えれば、いかに宮室を美しく飾っても益はない」と上疏した。荊州刺史に遷った。

遼東・高句麗遠征

  • 青龍年間、明帝が遼東討伐を図ると、毌丘儉に策があるとして幽州刺史に転じさせ度遼将軍・使持節・護烏丸校尉を加えた。幽州の諸軍を率いて襄平に至り遼隧に駐屯した。右北平烏丸単于寇婁敦や遼西烏丸都督率衆王護留ら、かつて袁尚に従い遼東へ逃れた者たち五千余人が降った。寇婁敦は弟の阿羅槃らを朝廷に遣わして朝貢し、その渠帥二十余人は侯・王に封ぜられ輿馬・繒采を賜った。公孫淵は毌丘儉に反撃し戦ったが利あらず、毌丘儉は軍を引き返した。翌年、明帝は太尉司馬懿に中軍と毌丘儉らの軍数万を統べさせ公孫淵を討たせ遼東を平定した。毌丘儉はこの功により安邑侯に進封され食邑三千九百戸を得た。
  • 正始年間、毌丘儉は高句麗がしばしば侵犯・叛服することを理由に、諸軍歩騎一万人を督して玄菟から諸道より討伐した。高句麗王の宮(東川王)は歩騎二万を率い沸流水のほとりで進軍し梁口で大戦したが連戦連敗し敗走した。毌丘儉はついに馬を束ね車を懸けて丸都に登り、高句麗の都を屠り首級・捕虜は千を数えた。高句麗の沛者(官名)得来はしばしば王宮を諫めたが聞き入れられず、「まもなくこの地は蓬蒿の生い茂る廃墟となるだろう」と嘆いて食を絶ち死に、国中がその賢を惜しんだ。毌丘儉はその墓を壊さず木を伐らぬよう諸軍に命じ、得来の妻子を得るとみな解放した。王宮は単身妻子を連れて逃げ隠れ、毌丘儉は軍を引き返した。
  • 六年(正始六年)、再びこれを征すると王宮は買溝へ逃れた。毌丘儉は玄菟太守王頎に追わせ、沃沮を越え千余里、粛慎氏の南界に至り石に功績を刻み、丸都の山に刻み不耐の城に銘を刻んだ。誅殺・帰順させた者は八千余口に及び、論功行賞で侯に封ぜられた者は百余人であった。山を穿って灌漑し、民はその利を享受した。

地方官歴任と乱の序章

  • 左将軍に遷り仮節監豫州諸軍事・領豫州刺史となり、のち鎮南将軍に転じた。諸葛誕が東関で戦い利あらず、そこで毌丘儉と諸葛誕の任地を交換させ、諸葛誕は鎮南将軍として豫州を都督し、毌丘儉は鎮東将軍として揚州を都督することとなった。呉の太傅諸葛恪が合肥新城を包囲した際、毌丘儉は文欽とともにこれを防ぎ、太尉司馬孚が中軍を率いて東進し囲みを解いたため、諸葛恪は退いた。
  • かねて毌丘儉は夏侯玄・李豊らと厚く親しかった。揚州刺史前将軍文欽は曹爽と同郷であり、驍勇果敢で粗暴、しばしば戦功を挙げたが虜獲の数を誇張して恩賞を求めることが多く許されず日ごとに怨みを深めていた。毌丘儉は計を用いて文欽を厚遇し情誼はよく合い、文欽もこれに感謝し二心なく心を寄せた。
  • 正元二年正月、彗星が数十丈にわたり西北の天を覆い呉・楚の分野に現れた。毌丘儉と文欽はこれを自らへの吉兆と喜び、太后の詔を偽って大将軍司馬師の罪状を挙げ諸郡国に触れを回して挙兵した。淮南の別屯を守る将士や吏民の大小をみな寿春城に入れ、城西に壇を築いて血をすすり盟を誓わせ、老弱に城を守らせ、毌丘儉と文欽自身は五、六万の兵を率いて淮水を渡り西の項県に至った。毌丘儉は堅く守り、文欽は城外で遊撃部隊として動いた。

毌丘儉・文欽――挙兵の大義名分(上表の要旨)

  • 二人が朝廷に奉った上表では司馬師に十一の罪状が列挙された。要旨は次の通りである。父司馬懿の功に乗じながら病と称して兵権を私し臣礼を欠いた罪、父の遺した対呉戦の計画を継がず父の喪の間に自ら中止した不忠不孝の罪、東関での敗戦の責を負わず賞罰を専断した罪、淮南将士の労苦を顧みず功を独占した罪、故中書令李豊ら大臣を密かに拉殺し屍を隠した罪、太后・斉王の廃立を専断し叔父太傅司馬孚らの反対を顧みなかった罪、無実の光禄大夫張緝を妻子ともに誅し太后にまで累を及ぼしながら喜んだ罪、天子即位後も臣礼を修めず兵を募り宮中を武装させた罪、領軍許允を無実のまま左遷し道中で死なせた罪、辺境守備を怠り私兵を集め諸国の兵器を本営に運び込んだ罪、屯田の兵を私党とし諸侯王を鄴に集めて誅殺しようとした罪、である。その上で司馬師の罪は本来大辟に当たるが、父司馬懿の功に免じ廃して侯に落とすべきとし、弟の司馬昭に忠誠寛明の徳ありとしてこれに代わらせ、太尉司馬孚・護軍散騎常侍司馬望を要職に就けるよう提案し、朝廷に博議を求めるとともに、司馬師が抵抗すれば兵をもって当たると宣言した。

毌丘儉・文欽――敗北と最期

  • 大将軍司馬師は中外の軍を統べてこれを討ち、別に諸葛誕に豫州諸軍を督させ安風津から寿春をうかがわせ、征東将軍胡遵に青・徐の諸軍を督させ譙・宋の間に出て毌丘儉らの帰路を絶たせた。大将軍自身は汝陽に駐屯し、監軍王基に前鋒の諸軍を督させ南頓に拠って待たせた。諸軍はみな塁を堅めて戦わなかった。毌丘儉・文欽は進んでも戦えず退けば寿春を襲われ帰れぬことを恐れ、策も尽きた。淮南の将士は家族がみな北にあり衆心は離散し降る者が相次ぎ、淮南に新たに帰属した農民だけが用をなした。
  • 大将軍は兖州刺史鄧艾に泰山の諸軍一万余人を督させ楽嘉に至らせ弱勢を装って誘い、大将軍自身も密かに洙水から到着した。文欽はこれを知らず果たして夜襲を試みたが、夜明けに大軍の盛んな様子を見て引き返した。『魏氏春秋』によれば、文欽の次子で幼名を鴦という俶は勇力が人に絶し、隙をついて撃つべきと父に進言し二隊に分かれて夜襲したが、俶が率いる壮士が先に達し大将軍の軍中を震え上がらせたものの、文欽の本隊が遅れて呼応せず、夜明けとともに双方とも撤退したという。『魏末伝』には、殿中人尹大目が使者として文欽を説得しようとしたが、文欽はかえって「貴様は先帝の家人でありながら恩を忘れ司馬師に与するのか」と罵り弓を引いて射ようとした逸話が伝わる。大将軍は驍騎を放って追撃し大いにこれを破り文欽は逃走した。
  • この日、毌丘儉は文欽の敗戦を聞いて恐れ夜中に逃走し軍は潰えた。慎県に至るころには従う者も次第に離れ、毌丘儉は幼い弟の毌丘秀と孫の毌丘重とともに水辺の草むらに身を隠したが、安風津都尉の部民張属に射殺され首は京都に伝えられた。張属は侯に封ぜられた。毌丘秀・毌丘重は呉に逃げ込んだ。毌丘儉・文欽に脅されて従った将士はみな降伏した。文欽が旧知の郭淮に宛てて挙兵の正当性を長文で訴えた書状が伝わるが、当時郭淮はすでに没しており文欽はそれを知らなかった。『世語』によれば、毌丘儉誅殺に連座した党与は七百余人に及んだが、侍御史杜友が獄を治め首謀者十人のみを挙げ残りは放免したという。
  • 毌丘儉の子毌丘甸は治書侍御史であったが、あらかじめ父の挙兵を知り家族を連れてひそかに新安の霊山に逃れていたところを別動隊に攻め落とされ、毌丘儉は三族を誅された。毌丘儉が挙兵した当初、子の毌丘宗ら四人を呉へ入れており、太康年間に呉が平定されると兄弟はみな中国へ戻った。毌丘宗(字子仁)は父の風格を継ぎ零陵太守となり、その子毌丘奥は巴東監軍・益州刺史となった。習鑿歯は「毌丘儉は明帝の顧命に感じてこの挙兵を行った。事は成らずとも忠臣と称すべきである」と評した。

文欽――呉への亡命

  • 文欽は呉に亡命すると、呉は都護・仮節・鎮北大将軍・幽州牧・譙侯に任じた。文欽の〈降呉表〉は、司馬師が二君(斉王・皇太后)を廃し害した悪逆を非難し、毌丘儉・郭淮らとともに義兵を挙げて司馬師を討とうとしたが力及ばず、恥じつつも呉の徳化に帰命する旨を述べ、魏から授かった使持節・前将軍・山桑侯の印綬を返上するという内容である。
  • 『魏書』によれば文欽の字は仲若、譙郡の人。父の文稷は建安年間に騎将として勇力で知られた。文欽は名将の子として武才で知られたが、魏諷の反乱に連座し数百回の笞刑を受け死罪となるところを父の縁で曹操に赦された。太和年間に五営校督、のち牙門将となったが、性格は剛暴で無礼、任地では傲慢に振る舞い官法に従わず、しばしば弾劾されて明帝に抑えられた。のち淮南牙門将、廬江太守・鷹揚将軍に転じたが、王凌の弾劾で免官寸前となり召還された。曹爽が同郷のよしみで厚遇し罪を問わず廬江に戻し冠軍将軍を加えたため、文欽はいよいよ驕り自らの武勇を誇った。曹爽誅殺後は前将軍に進められその心を安んじられ、のち諸葛誕に代わり揚州刺史となった。曹爽誅殺以来常に内心恐れ、諸葛誕とも不和で謀議に加わらなかったが、諸葛誕が兵権を離れると毌丘儉と密かに結び挙兵した。敗れて呉へ逃れ、孫峻に厚遇されたが、他国にあっても人に屈することができず呂拠・朱異ら呉の諸将には憎まれ、ただ孫峻だけが常にこれをかばった。