三國志卷二十八 王毌丘諸葛鄧鍾傳第二十八 王凌

王凌(字は彦雲、太原祁県の人)は漢の司徒王允の甥。文帝・明帝朝で武功を挙げ揚州の重鎮として太尉・仮節鉞にまで昇った。しかし甥の令狐愚と謀り楚王曹彪を擁立しようとしたことが発覚し、司馬懿に降伏したのち嘉平三年に自殺した。

年表(6件)
  • 正始初年征東将軍・仮節都督揚州諸軍事となる
  • 正始二年芍陂に侵入した呉軍を撃退し南郷侯に進封される
  • 嘉平元年九月甥の令狐愚が張式を曹彪のもとへ遣わし擁立を謀る
  • 嘉平二年熒惑(火星)の兆しを見て挙兵の決意を固める
  • 嘉平三年春挙兵を図るが密告により発覚し、司馬懿に降伏する
  • 嘉平三年項県で毒を仰いで自殺する

出自と初期の官歴

  • 王凌、字は彦雲、太原祁県の人である。叔父の王允は漢の司徒で董卓を誅殺した。董卓の部将李傕・郭汜らが仇を報じるべく長安に入り王允を殺し一族を皆殺しにした。王凌と兄の王晨はまだ若く城を越えて逃れ、姓名を隠して郷里へ亡命した。
  • 王凌は孝廉に挙げられ発干県長となった。『魏略』によれば、在官中に事に触れ髠刑五年に処せられ道路の掃除をさせられていたが、曹操の車駕が通りかかり事情を尋ねたところ、左右が「これは王允の兄の子です、罪も父と同様でした」と答え、曹操は「主者よ」と言ってこれを驍騎主簿に選ばせたという。のち中山太守に昇進し治績を挙げ、曹操に召されて丞相掾属となった。

文帝期の武功と地方統治

  • 文帝の即位後、散騎常侍を拝し兖州刺史となり、張遼らとともに広陵で孫権を討った。長江に臨んだ夜、大風で呉の将呂範らの船が北岸に漂着すると、王凌は諸将とともに迎え撃ち捕虜と船を得る功を立て、宜城亭侯に封ぜられ建武将軍を加えられ、青州に転じた。当時、沿海は乱後で法制が未整備であったが、王凌は政治を布き教化を施し賞罰に規律があり、百姓は口を極めて称えた。
  • のち曹休に従い呉を征したが、夾石で敵に遭い曹休軍は不利となり、王凌は力戦して包囲を破り曹休を難から救った。揚州・豫州刺史を歴任し軍民の歓心を得た。豫州に着任した当初、先賢の子孫を顕彰し埋もれた士を求めるなど条教はいずれも美しい趣旨であった。かねて司馬朗・賈逵と親しく、兖州・豫州に臨んでその治績を継いだ。
  • 正始初年、征東将軍・仮節都督揚州諸軍事となった。正始二年、呉の大将全琮が数万の兵で芍陂に侵入すると、王凌は諸軍を率いて迎え撃ち、堤を巡って連日力戦し賊を退けた。南郷侯に進封され食邑千三百五十戸、車騎将軍・儀同三司に遷った。

令狐愚との謀議

  • 当時、王凌の甥の令狐愚は才能により兖州刺史となり平阿に駐屯していた。舅甥ともに兵を掌り淮南の重鎮を専らにしていた。王凌は司空に遷った。司馬懿が曹爽を誅殺した後、王凌は太尉・仮節鉞に進んだ。
  • 王凌と令狐愚は密かに謀り、斉王(曹芳)は天位に堪えず楚王曹彪は年長で才があるとし、これを迎えて許昌に都させようとした。嘉平元年九月、令狐愚は将の張式を白馬に遣わし曹彪と往来させた。王凌もまた舎人労精を洛陽に遣わし子の王広に語らせたが、王広は「廃立は大事、禍の先鋒となってはならない」と述べた。『漢晋春秋』にはこの謀議の詳細(王広が曹爽失敗の理由を挙げて父を諫めた長い問答)が載るが、裴松之はこの類の記述が正史に見えず習鑿歯の創作を疑うと注する。
  • その十一月、令狐愚はさらに張式を曹彪のもとへ遣わしたが、式が帰る前に令狐愚は病死した。『魏書』によれば令狐愚は字を公治といい元の名は浚、黄初年間に和戎護軍となったが法に触れ免官され、皇帝に「浚は何と愚かなことか」と言われたことから名を愚と改めたという。正始年間には曹爽の長史となり、のち兖州刺史に出た。『魏略』によれば令狐愚は楚王曹彪に智勇があると聞き、当時流布した妖馬や「白馬素羈西南に馳す」との謡言(楚王の幼名が朱虎であったことに絡む)を信じ、王凌と密かに楚王擁立を謀ったという。

蜂起の露見と最期

  • 嘉平二年、熒惑(火星)が南斗に留まったのを見て王凌は「斗の中に星があれば急に貴くなる者が現れる」と占った。『魏略』によれば東平の民浩詳という占星に通じた者に問うたところ、浩詳は淮南楚の分野に当たるとことさらに答え、呉と楚とを同じ占とし王者の興る兆しとしたため、王凌の決意はいよいよ固まったという。
  • 嘉平三年春、呉の賊が塗水を塞ぐと、王凌はこれを機に挙兵しようと諸軍を厳しく戒め討伐を上表したが、詔は許さなかった。王凌の陰謀はますます深まり、将の楊弘を遣わし廃立の事を兖州刺史黄華に告げさせたが、黄華と楊弘は連名で太傅司馬懿に密告した。司馬懿は中軍を率い水路より王凌を討つべく進み、先に赦令を下して王凌の罪を赦し、また尚書を遣わして書を送りこれを諭させ、大軍が百尺に至って王凌に迫った。
  • 王凌は自らの勢いが尽きたことを知り、船に単身乗って司馬懿を出迎え、掾の王彧を遣わして謝罪させ、印綬・節鉞を送った。軍が丘頭に至ると、王凌は水辺で自ら両手を後ろに縛って出頭した。司馬懿は詔を承けて主簿を遣わし縛を解き衣服を戻させ、王凌に会って慰労し、印綬・節鉞を返し、歩騎六百人をつけて京都へ護送させた。しかし王凌は途中の項県で毒を仰いで自殺した。
  • 『魏略』所収の王凌が太傅に送った書には「にわかに神軍が密かに発せられたと聞き、すでに百尺に迫っていると知りながら、お会いするのが遅れたことは身と首が分かれても恨みとしません……亡き甥の令狐愚が浅慮な言に惑わされた際、私は即座にこれを制止し語らせませんでした……図らずも聖恩は天覆地載のごとく、身命を保ち再び日月を見ることができました」とあり、続けて「身は刑罪に陥りながらも過分に赦しを蒙りました。今、掾を遣わし印綬をお送りします。詔書の通り自ら縛って帰命いたします」とある。
  • 送られた印綬が届くと司馬懿はこれに応じ人を遣わして縛を解かせた。赦されたことで旧交を頼み疑わず、小船で自ら司馬懿のもとへ赴こうとしたが、司馬懿は人を遣わして押しとどめ、船は淮水の中に十余丈離れて留め置かれた。事態を悟った王凌は遠くから「あなたは書状一つで私を召せばよかったものを、なぜ軍を率いて来られたのか」と言い、司馬懿は「あなたが書状ひとつで従う人物とは思えなかったからだ」と答えた。王凌が「あなたは私を裏切った」と言うと、司馬懿は「私はあなたを裏切っても国家は裏切らぬ」と答え、人を遣わして西(京都)へ送らせた。
  • 王凌は自らの罪が重いことを知り、試みに棺の釘を求めて司馬懿の意を探ると、司馬懿はこれを与えた。項に至った夜、王凌は掾属を呼び「齢八十にして身も名も共に滅びるのか」と言い、自殺した。干宝『晋紀』によれば、王凌は項で水辺の賈逵の祠を見て「賈梁道よ、王凌はまことに魏の社稷に忠であった、汝に神霊あらばこれを知れ」と呼びかけたという。その年八月、太傅司馬懿は病を得、王凌と賈逵の霊が祟るのを夢に見てひどく忌み嫌い、ついに没した。

粛清と関係者

  • 司馬懿はそのまま寿春に至った。張式らはみな自首し、事件は徹底的に調べ上げられた。曹彪は死を賜り、事件に連座した者はことごとく三族を誅された。
  • 『魏略』によれば、山陽の単固(字恭夏)は令狐愚と父の代からの交誼で別駕に推され、母の勧めもあって渋々仕え楊康とともに令狐愚の腹心となった。令狐愚の病没後、楊康は洛陽で事件を漏らし、太傅はこれにより王凌を捕えた。単固は太傅の尋問に事件を知らないと答え通したが、楊康の証言により連座を疑われ拷問数十回に及んでもなお否認を貫き、対決させられた楊康を「老いぼれめ、使君を裏切った上に我が一族まで滅ぼすとは、貴様だけ生き延びられると思うか」と罵った。単固は最後まで母にも顔を上げず語らぬまま処刑された。楊康は密告により封賞を期待したが証言に矛盾が生じ結局斬られ、刑場でも単固に罵られた。
  • 朝議は春秋の義(斉の崔杼・鄭の帰生の例)に基づき王凌・令狐愚の罪は旧典に従うべきとし、両者の墓を暴いて棺を割り近くの市で三日間屍を晒し、印綬・朝服を焼いた上で土に埋めさせた。干宝『晋紀』によれば兖州の武吏東平の馬隆が令狐愚の家客と偽り私財で改めて葬り三年の喪に服し松柏を植えたため、一州の士人はこれを恥じたという。黄華・楊弘は爵を郷侯に進められた。王広は志操と学問を備えていたが、この時四十余歳で死んだ。『魏氏春秋』によれば王広の字は公淵、弟の王飛梟・王金虎はともに才武人に過ぎていた。太傅がかつて蒋済に王凌一族を問うと、蒋済は「王凌は文武ともに優れ当代に並ぶ者なし、王広らの志力は父よりなお優れる」と答え、後に「この発言は一族を滅ぼすことになった」と悔いたという。『魏末伝』によれば、王凌の末子(字明山)は最も知られ書に巧みで多芸であったが、太原へ逃れる途中で追手に捕らえられたという。