三國志卷二十七 徐胡二王傳第二十七 王基

王基(字は伯輿、東莱曲城の人)は幼くして父を失い叔父に育てられた。文才と行政手腕に優れ、明帝や司馬師への直言でも知られる一方、荊州刺史・征南将軍として対呉戦線で軍略に長け、毌丘倹・文欽の乱、諸葛誕の乱でも独自の判断で功を立てた。清廉で恩賞を部下に譲ることも多く、没後は司空を追贈され諡は景侯。

年表(8件)

出自と初期の官歴

  • 王基、字は伯輿、東莱曲城の人である。幼くして父を失い叔父の王翁のもとで育てられ、王翁は篤く養育し王基も孝行で知られた。十七歳で郡に召され吏となったが本意でなく辞して琅邪に遊学した。
  • 黄初年間、孝廉に挙げられ郎中に任ぜられた。当時青州は平定されて間もなく、刺史王淩が特に上表して王基を別駕とし、のち召されて秘書郎となったが王淩はまた州へ呼び戻すよう請うた。ほどなく司徒王朗が王基を辟召したが王淩は手放さず、王朗は州を弾劾する書を送り「良臣は公輔に昇り、公の臣は王職に入るのが古の礼である。今、州が宿衛の臣を留め秘閣の吏を留め置くとは前代未聞である」と述べたが、王淩はなお手放さなかった。王淩が青州で名声を得たのも王基の補佐によるところが大きかった。大将軍司馬懿が王基を辟召したが赴任前に中書侍郎に抜擢された。

明帝への諫言

  • 明帝が盛んに宮室を造営し民が疲弊した際、王基は上疏して「古人は水を民に喩え『水は舟を載せもし、また舟を覆しもする』と言う。民の上に立つ者は戒め懼れねばならない。民は安逸だと考えが緩み苦しむと難事を思うもの。ゆえに先王は倹約をもって民を治め患いを生じさせなかった。かつて顔淵が東野子の御を評し馬力が尽きても進ませ続けるのを見て敗を知ったように、今の労役の苦しみと男女の離散を陛下は東野の弊に照らし、水は舟を覆すという喩えを心に留め、馬車を疾駆させる前に止め力役を困窮の前に節すべきです。漢の文帝の時代、同姓諸侯しかいなかったのに賈誼は『薪の上に火を置いてその上に寝るようなものだ』と憂えた。今なお賊寇が滅びず猛将が兵を擁している状況で除患に努めねば、子孫が争わずとも社稷の憂いとなろう。賈誼が今生きていればなおさら深く憂えたであろう」と述べた。

地方官としての活躍と曹爽事件

  • 散騎常侍王粛が経伝の解釈や朝儀の論定を著し鄭玄の旧説を改めたが、王基は鄭玄の説を根拠に常に対抗した。安平太守に遷り公事で官を去った。大将軍曹爽が従事中郎に招き、のち安豊太守に出た。郡は呉の侵攻に接し、政は清厳威徳を兼ね備え防備を明らかにしたため敵は侵犯しなかった。討寇将軍を加えられた。
  • 呉がかつて建業に大軍を集め揚州侵攻の噂を流した際、刺史諸葛誕は王基に策を問うた。王基は「かつて孫権は二度合肥に、一度江夏に迫り、その後全琮は廬江に、朱然は襄陽に出たがいずれも功なく退いた。今、陸遜らは死し孫権も老い、内に賢い後継者なく謀主もいない。孫権自ら出れば内紛を懼れ、将を派遣すれば旧将は尽き新将は未だ信用されていない。これは支党を補い固め自保するに過ぎまい」と述べ、果たして孫権は出兵しなかった。
  • 当時曹爽が権を専らにし風化が乱れたため、王基は『時要論』を著し世事を批判した。病を理由に召還され河南尹に起用されたが赴任前に曹爽が誅され、王基もかつて曹爽の属官であったため慣例により罷免された。

荊州刺史から征南将軍まで

  • 同年尚書となり、荊州刺史に出て揚烈将軍を加えられ、征南将軍王昶に従い呉を攻めた。王基は別動隊で夷陵の歩協を攻めたが歩協は城門を閉じて守った。王基は攻撃の構えを見せつつ実際は兵を分けて雄父の邸閣を取り米三十余万斛を得、安北将軍譚正を捕虜とし降者数千を得た。降民を移して夷陵県を置いた。関内侯に叙せられた。
  • 王基はまた上昶に城を築くよう上表し江夏の治所を移してここに置き、夏口に迫ることで賊が容易に長江を越えられぬようにした。制度を明らかにし軍農を整え学校も興し、南方でその治績を称えられた。
  • 朝廷が呉討伐を議した際、王基に進撃の可否を諮問すると、王基は「兵を動かして功がなければ内外に威信と財を損なう、ゆえに万全を期してから用いるべきである。もし水路を通じ穀物を集め水戦に備えねば、江内に兵を積んでも渡河の勢いは生じない。今、江陵には沮水・漳水があり肥沃な農地を千単位で灌漑できる。安陸周辺の陂池も肥沃である。水陸ともに農を興し軍資を実らせた後、江陵・夷陵に兵を進め夏口に分駐し、沮水・漳水沿いに水運で穀物を下せば、賊は官軍の持久の構えを知り抵抗の意欲を失い、王化に帰す者は増える。その後に蛮夷を率いて内を攻め精鋭で外を討てば夏口以上は必ず陥ち江外の郡も守れなくなろう。かくして呉蜀の交通は絶たれ呉は捕えられよう。さもなくば出兵の利は定かでない」と述べ、これにより計画は中止された。

司馬師への諫言

  • 司馬師が新たに政を統べた際、王基は書を送って戒め「天下は極めて広く政務は極めて多い、ゆえに謹み励み夜明けまで座して待つほどでなければならない。志が正しければ邪は生じず、心が静かであれば事は乱れず、思慮が定まれば教令は煩わしくならず、忠良を用いれば遠近が心服する。ゆえに和を遠くに及ぼす根は身にあり、衆を定める根は心にある。許允・傅嘏・袁侃・崔賛はいずれも当代の正士で、直質にして流されぬ心を持ち、ともに政事を行うべき人物である」と述べ、司馬師はこれを納れた。

毌丘倹・文欽の乱での献策

  • 高貴郷公が即位すると常楽亭侯に進封された。毌丘倹・文欽の乱に際し、王基は行監軍・仮節として許昌の軍を統べ、ちょうど許昌で司馬師と会した。司馬師が「毌丘倹らをどう見るか」と問うと、王基は「淮南の反乱は吏民が乱を望んだのではなく、毌丘倹らが誑かし脅して人々を従わせただけで、目下の誅を恐れて群れ集まっているに過ぎません。大軍が迫れば必ず土崩瓦解し、毌丘倹・文欽の首は一朝のうちに軍門に懸けられましょう」と答え、司馬師は「よし」として王基を軍の先頭に置いた。
  • 議論する者は毌丘倹・文欽が勇猛で相手取り難いとし、詔で王基は駐屯を命じられたが、王基は「毌丘倹らの軍は深く進めるはずなのに久しく進まないのは、すでに詐術が露見し衆心が疑い沮んでいる証である。今、威容を示さず高い塁に籠って停軍するのは臆病に見え、用兵の勢いとして良くない。もし賊が民を略奪し、州郡の兵で捕えられた者がいれば離反の心を抱き、毌丘倹らに脅された者は罪の重さに自ら還る勇気を失う。これは兵を無用の地に置き姦宄の温床を作ることになる。呉の侵攻を招けば淮南は国家のものでなくなり譙・沛・汝・豫も危うくなる、これは大失策である。軍は速やかに進んで南頓に拠るべきだ。南頓には大きな邸閣があり四十日分の軍糧が賄える。堅城を保ち穀物を蓄えれば先んじて人の心を奪うことができる、これが賊を平らげる要である」と繰り返し求め、ついに沷水への進駐が許された。
  • 到着後さらに「兵は拙速を尊び、巧遅の久しきを見ない。今、外に強敵、内に叛臣がある以上、速やかに決すべきだ。議論する者の多くは持重を望むが、持重は正しいが停軍不進は誤りだ。持重とは行動しないことではなく、進んでも侵されぬことを言う。今、堅城に拠り塁を保つのは敵を実らせるだけで甚だ良策でない」と述べた。司馬師が諸軍の集結を待とうとしてなお許可しなかったため、王基は「将は軍にあっては君命も受けないことがある。彼が得れば利、我が得ても利、これを争城という、南頓がまさにそれだ」と述べ、独断で南頓に進駐した。
  • 毌丘倹らも項から南頓へ向かおうとしたが十余里進んだところで王基が先着したと知り項へ引き返した。当時兖州刺史鄧艾は楽嘉に駐屯し、毌丘倹は文欽に鄧艾を襲わせようとしたが、王基はその軍の分散を知り項に迫り、毌丘倹の軍は敗れた。文欽らが平定されると鎮南将軍に遷り豫州諸軍事を都督し豫州刺史を領し安楽郷侯に進封された。上表して二百戸を分け叔父の子王喬に関内侯を賜わり、叔父の養育の恩に報いることを願い、詔で特に許された。

諸葛誕の乱と軍略

  • 諸葛誕が反した際、王基は本官のまま鎮東将軍代理として揚豫諸軍事を都督した。大軍は項に駐屯し賊兵が精鋭であるため王基には堅塁を守るよう詔があったが、王基は繰り返し進撃を求めた。呉が朱異を派遣して諸葛誕を救援し安城に駐屯すると、王基はまた詔により諸軍を北山に移すよう命じられたが、諸将に「今、包囲の陣は固まり兵馬も集まりつつある。ただ守備を精しくして敵の脱出を待つべきで、兵を移して険を守れば敵に放縦を許すことになり、賢者でも善後を図れない」と述べ、便宜に従い上疏して「今、賊と対峙する以上、山のように動かぬべきである。もし険地に依って移れば人心が動揺し勢いを大きく損なう。諸軍がともに深い塹と高い塁に拠れば衆心は定まり動かされることがない、これが兵を御する要である」と述べ、上奏は聴許された。
  • 大将軍司馬昭が丘頭に進駐し包囲を分担させた際、王基は城の東・南二十六軍を督し、司馬昭は軍吏に鎮南部の界に入らぬよう命じた。城中の食糧が尽き昼夜攻撃を仕掛けてきたが王基はこれを撃退した。壽春が陥落した後、司馬昭は王基に書を送り「当初議論する者は皆、移動を求め時勢を見ていなかったが、あなたは深く利害を計り独り志を固く保ち、上は詔命に違い下は衆議に逆らってなお敵を制し賊を捕えるに至った。これは古人の事績にも劣らぬ」と称えた。
  • 司馬昭が軽兵を派遣して唐咨らの子弟を招き呉を覆そうとした際、王基は「かつて諸葛恪は東関の勝ちに乗じ江表の兵を尽くして新城を包囲したが陥せず死者は半ばに及んだ。姜維も洮西の利に乗じ軽兵で深入りしたが糧が続かず上邽で全軍を失った。大勝の後は上下が敵を軽んじ、慮りが浅くなる。今、賊は外で敗れ内にも患いが未だ収まらぬ以上、備えを整え慮りを深くする時である。俘虜十万を得て罪人を捕えた今の全勝は歴代の征伐に類を見ない。かつて武帝は官渡で袁紹を破った際、既に多くを得たとして深追いせず威を損なうことを恐れた」と諫め、司馬昭はこれを止めた。淮南平定に伴い征東将軍・都督揚州諸軍事に転じ東武侯に進封された。王基は固辞して功を部下に譲り、これにより長史司馬ら七人がみな侯となった。

晩年

  • この年、王基の母が没し、詔で凶事を秘し王基の父王豹の柩を迎えて洛陽に合葬し、王豹に北海太守を追贈した。甘露四年、征南将軍に転じ荊州諸軍事を都督した。常道郷公の即位で食邑千戸を増し前と合わせ五千七百戸となった。前後して二子が亭侯・関内侯に封ぜられた。
  • 景元二年、襄陽太守が呉の賊鄧由らの帰化の意を上表し、王基は詔を受け江表を震撼させるよう命じられたが、王基は詐計を疑い駅馬で状況を報告し「嘉平以来しばしば内乱があり、当今の務めは社稷を鎮め百姓を安んじることにあり、外利を求めて衆を動かすべきではない」と述べた。司馬昭は返書で「事に処する者の多くは曲げて従うが、あなたは確かな道理を尽くしている。忠愛の情に感じ入り、常にあなたの意見に従おう」と応えた。のち鄧由らは結局降らなかった(司馬彪『戦略』にこの経緯が詳しく載る)。

死去とその後

  • この年、王基は没し司空を追贈され諡は景侯。子の王徽が跡を継いだが早世した。咸熙年間、五等爵制が開かれると王基が前朝で功績を挙げたことにより孫の王廙が改めて封ぜられ、東武の余邑をもう一人の子に分け関内侯を賜った。晋室の建国に際し詔で「故司空王基は徳を著し功を立て、身を清く保ち産業を営まず、長く重任にありながら家に私財を蓄えなかった。身没して行いが顕彰される、まさに世の模範とすべき人物である。その家に奴婢二人を賜わる」とされた。

【評】

史論

  • 評して言う。徐邈は清らかで度量広く、胡質は素朴で貞粋、王昶は開明で識見高く、王基は学問と品行が堅く潔い。いずれも方面の重任を掌り功績を残した。国家の良臣、時代の俊才と称すべき人物たちである。