三國志卷二十七 徐胡二王傳第二十七 王昶

王昶(字は文舒、太原晋陽の人)は文帝の東宮時代から仕え、洛陽典農・兖州刺史などを歴任した学識ある将帥。「治論」「兵法」などの著述を残し、子弟への訓戒書でも知られる。征南将軍として荊豫方面を統べ、呉討伐で功を立てて司空に至った。甘露四年に没し、諡は穆侯。

年表(6件)
  • 青龍年間「治論」等を著し朝廷に奏上する
  • 青龍四年明帝の詔により太尉司馬懿から人材として推挙される
  • 正始年間征南将軍・仮節都督荊豫諸軍事に遷り、新野に治所を移す
  • 嘉平初年曹爽誅殺後、治政に関する五事を建言する
  • 嘉平二年呉討伐を上奏し、江陵で呉将施績を破る
  • 甘露四年没す。諡は穆侯

出自と初期の官歴

  • 王昶、字は文舒、太原晋陽の人である。〈王氏譜〉によれば伯父の王柔(字叔優)、父の王沢(字季道)であるという。〈郭林宗伝〉によれば、王叔優・王季道が幼少の頃、郭林宗が人物眼を持つと聞き二人で訪ねて進路を尋ねたところ、郭林宗は笑って「お前たち二人はいずれも二千石の才を持つ。叔優は仕官で名を挙げ、季道は経術で進むべきだ。才を違えて事を変えれば至らぬ」と言い、二人はその言葉に従った。王叔優は北中郎将、王季道は代郡太守に至った。
  • 王昶は若くして同郡の王淩と名を並べた。王淩が年長であったため王昶は兄として仕えた。文帝が東宮にあった頃、王昶は太子文学となり中庶子に昇進した。文帝の即位後、散騎侍郎に転じ洛陽典農となった。当時都畿は樹木が生い茂っていたが、王昶は荒地を開墾し民を励まし、耕地は特に増えた。
  • 兖州刺史に転じ、明帝の即位で揚烈将軍を加えられ関内侯に叙せられた。王昶は外任にあっても朝廷を思い、魏が秦漢の弊を受け継ぎ法制が煩瑣であることを憂え、国典を大きく改めて先王の風に準じなければ治化の復興は望めないと考え、「治論」古制に依りつつ時務に合う篇を二十余篇著し、また兵法書十余篇を著して奇正の運用について論じた(『孫子兵法』にいう「兵は正をもって合し奇をもって勝つ、奇正は互いに生じ循環に端無きが如し」の意)。青龍年間にこれを朝廷に奏上した。

子弟への訓戒

  • 王昶は兄の子や自らの子に名をつける際、いずれも謙虚実直の意を込め、兄の子には黙(字は処静)・沈(字は処道)、自らの子には渾(字は玄冲)・深(字は道冲)と名付け、書を著してこれを戒めた。
  • その訓戒の要旨は次の通りである。人の子たる道は身を保ち行いを全うし父母を顕彰することに勝るものはない。しかし孝敬仁義を篤く行わず本を捨てて末を追い浮華に流れ朋党を成せば、虚偽の累や彼此の患いを招く。富貴名声は人情の望むところだが、道によらぬものは君子はあえて得ようとしない。足るを知らねば欲を失う。汝らには玄黙冲虚の名を与え、名を顧み義を思い違わぬようにさせたい。物事は速く成れば早く滅び、遅く成れば善く終わる、朝に咲く花は夕べに散り、松柏は寒中も衰えぬ、ゆえに君子は速成を嫌う。范匄(実は范燮の誤りかとする裴松之注あり)が秦の客に対し父の武子に杖で打たれた故事のように、人に功を誇り人を掩う者は人にも掩われ、陵ぐ者は人にも陵がれる。ゆえに君子は自ら誇らず、人を掩うことを恥じる。毀誉は愛憎の原であり禍福の機であるから聖人はこれを慎む。
  • また馬援が兄の子を戒めた「人の悪を聞いたら父母の名を聞くように、耳では聞いても口には出すな」との言を引き、裴松之はこれを切実な訓えとしつつも、馬援自身が龍伯高を誉め杜季良をそしったことでかえって杜季良が失脚した例を挙げ、言葉が人を傷つける害の大きさを指摘した。人に毀られたら自らを省み、毀るべき点があればその言は当たっており、なければ妄言に過ぎないので怨む必要はない、と説く。近年の魏諷・曹偉が邪な人柄で身を滅ぼし世を惑わせた例(曹偉は白衣のまま呉の孫権に通じ賄賂を求めたため誅されたと『世語』にある)も戒めとした。
  • 夷斉のように隠遁して餓死や焚死を選ぶことは聖人も行わず自分も望まない。汝らの先人は代々冠冕の家であり仁義・慎み・孝悌・学問を重んじてきた。私が交わってきた当世の人物についても評す。頴川の郭伯益(郭嘉の子、郭奕)は通達で才知はあるが度量に乏しく貴きを軽んじる傾向があり、親しむが子には手本としてほしくない。北海の徐幹(字偉長)は名声を求めず道を専らとし、是非を古人に託して当世を褒貶しない人物で、これを敬い子の師としてほしい。東平の劉楨(字公幹)は博学高才だが性行に偏りがあり、愛するが慕わせたくはない(裴松之はこの部分について、王昶が既に亡くなった旧友の善悪を後世に書き残すことを批判し、東方朔が子を戒めた文の方が優れているとする注を付す)。楽安の任嘏(字昭先)は純粋で道を履み内に敏く外に恕、謙譲恭順で危険な地位も避けず、勇敢でありながら朝廷では身を慎む人物で、友として善しとし子に見習わせたい。
  • 訓戒の最後に、財の用い方は九族を先に、施しは急を要する者に、出入りは老人を訪ね、議論では貶めることを貴ばず、進仕では忠節を尊び、人を用いるには実直を務め、権勢の座では驕淫を戒め、貧賤にあっては嘆かず、進退は宜に合わせ、事に当たっては九思を加えるべきことを説き、「かくのごとくであれば我に何の憂いがあろうか」と結んでいる。

征南将軍としての軍事・政策

  • 青龍四年、明帝は「才智文章に優れ、深謀遠慮を持ち、遠きを近きの如く見通し、私心なく公に尽くす者を、年齢や身分にかかわらず推挙せよ」と詔した。太尉司馬懿は王昶をこれに選んだ。
  • 正始年間、徐州に転じ武観亭侯に封ぜられ、征南将軍・仮節都督荊豫諸軍事に遷った。王昶は「国には常なる兵はあるが戦に常勝はなく、地には常なる険阻はあるが守りに常勢はない」と考え、宛(現在の駐屯地)が襄陽から三百余里離れ諸軍が分散駐屯し船は宣池にあり緊急時に応じきれないことから、上表して新野に治所を移し荊・豫二州で水軍を訓練し、農地を広く開墾して倉庫に穀物を満たした。

曹爽誅殺後の建言

  • 嘉平初年、太傅司馬懿が曹爽を誅殺した後、大臣たちに得失を広く諮問した。王昶は治政に関する五事を陳述した。すなわち、道を崇め学問を篤くし浮華を抑え国子を太学に入れ学校制度を整えること、考試の制度を用いて能否を客観的に評価すること、官に長く居させ治績があれば昇進させること、官と俸禄を節し廉恥を励まし百姓と利を争わせないこと、奢侈を絶ち節倹を尊び衣服・上下の秩序を明らかにし蓄えを増やし民を素朴に戻すことである。詔書はこれを褒め讃えた。これにより王昶は百官考課の事を撰することを命じられ、唐虞にすら黜陟の文はあっても考課の法は伝わらず、周制の冢宰も官吏の治績を総評するのみで細かな比較の制はなかったとし、聖主が賢者の登用に明るく黜陟の大枠を示し達官の長に委ねてその統紀を総括すべきであると論じた。

呉との攻防と晩年

  • 嘉平二年、王昶は「孫権が良臣を放逐し嫡庶の争いがあるため、この機に乗じて呉・蜀を制すべきである。白帝・夷陵の間の黔・巫・秭帰・房陵はいずれも長江北岸にあり異民族と接するので奪取できる」と上奏した。新城太守州泰に巫・秭帰・房陵を襲わせ、荊州刺史王基を夷陵へ、王昶自身は江陵へ向かい、両岸に竹の綱を張って橋とし渡河して攻撃した。
  • 賊は南岸に逃れ七道から反攻したが、王昶は弩を一斉に発射させ、呉の大将施績は夜に江陵城へ逃げ込み、追撃して数百級を斬った。王昶は敵を平地に誘い出そうと五軍をわざと大道から撤退させて油断させ、獲得した甲・馬・首級を城の周りに見せつけて怒りを誘い伏兵を配した。施績は果たして追撃してきて戦い、王昶はこれを破った。施績は敗走し、その将鍾離茂・許旻を斬り、甲・旗鼓・珍宝・器仗を鹵獲して凱旋した。王基・州泰もともに功を挙げた。
  • これにより王昶は征南大将軍・儀同三司に昇り京陵侯に進封された。毌丘倹・文欽の乱では兵を率いて拒み功を立て、二子を亭侯・関内侯に封ぜられ、驃騎将軍に昇進した。諸葛誕の反乱では夾石に拠って江陵に迫り、施績・全熙が東進できぬようにした。誕の誅殺後、詔で「昔孫臏が趙を助け大梁に直進した。西方の軍が急速に進んだのも東征の勢いを成すためであった」と称えられ、食邑千戸を増し前と合わせ四千七百戸となり、司空に遷り持節・都督は元のままとされた。甘露四年に没し、諡は穆侯。

子孫

  • 子の王渾が跡を継ぎ、咸熙年間に越騎校尉となった。