三國志卷二十七 徐胡二王傳第二十七 胡質

胡質(字は文徳、楚国寿春の人)は若くして名を知られ、頓丘令から地方官・州刺史を歴任した。荊州刺史・征東将軍として対呉戦線を統べ、農業振興や水路整備で治績を挙げた。恩賞を部下に分け与え家に余財を残さない清廉な人柄で知られ、嘉平二年に没した。子の胡威も同様に清廉で知られ、徐州刺史・前将軍に至った。

年表(5件)
  • 黄初年間吏部郎に転じ、のち常山太守となる
  • 嘉平二年没す。家に余財なく、陽陵亭侯を追封され諡は貞侯
  • 嘉平六年詔書で胡質の清廉な行いを褒め、家に銭穀を賜う
  • 咸熙年間子の胡威、徐州刺史に至る
  • 太康元年胡威、没し鎮東将軍を追贈される

出自と頓丘令としての治績

  • 胡質、字は文徳、楚国寿春の人である。若くして蒋済・朱績とともに江淮の間で名を知られ、州郡に仕えた。蒋済が別駕となり曹操に謁見した際、曹操が「胡通達は長者だが、子孫はいるか」と尋ねると、蒋済は「子の質がおりますが、大局を見る力は父に及ばぬものの、精緻に事を処理する点では父を上回ります」と答えた。
  • 曹操はただちに胡質を召して頓丘令とした。県民の郭政が従妹と密通し夫の程他を殺し、郡吏馮諒が獄に繋がれ証人とされた。郭政とその妹はともに拷問に耐え否認を貫いたため、馮諒は苦痛に耐えかね自ら罪を認め、その罪を負わされそうになった。胡質は着任するとその表情から真相を察し、事件をさらに詳しく調べ、検証して自白させた。

丞相府から刺史へ

  • 丞相府の東曹議令史に召され、州は治中に推挙した。将軍張遼はその護軍武周と不和であった。張遼が刺史温恢を通じて胡質に会おうとしたが、胡質は病と称して辞退した。張遼が出て「私は君に心を寄せているのに、なぜこう冷たくするのか」と言うと、胡質は「古人の交わりは、多く取っても貪欲でないと知り、敗走しても臆病でないと知り、流言を聞いても信じないからこそ長続きするのです。武伯南(武周)は身は雅士でありながら、あなたは以前口を極めて彼を称賛しておられた。今わずかな恨みで隙が生じたに過ぎません。まして私のような浅才の者が、どうして長く好誼を保てましょうか。ゆえに願わないのです」と答えた。張遼は感じ入り、武周と和解した。

地方官としての治績

  • 曹操に召されて丞相属となり、黄初年間には吏部郎に転じ、常山太守となり、のち東莞に転任した。士人盧顕が殺害された事件で、胡質は「この人物には仇はいないが若い妻がいる、それが死因だろう」と述べ、隣人の年少者を悉く呼んで調べたところ、書吏の李若が尋問時に顔色を変えたため追及すると、李若は自白し犯人が捕らえられた。
  • 軍功による恩賞はすべて部下に分け与え、自らの家には入れなかった。東莞郡に九年在任し、官吏民衆は安んじ将士は命令に従った。

荊州刺史・征東将軍として

  • 荊州刺史に転じ振威将軍を加えられ関内侯に叙せられた。呉の大将朱然が樊城を包囲した際、胡質は軽装の軍を率いて駆けつけた。議論する者はみな賊の勢いが盛んで迫るべきでないとしたが、胡質は「樊城は低く小さく兵も少ない、進軍して外からの援けとしなければ危うい」と述べ、兵を率いて包囲軍の近くに迫り、城内は落ち着いた。
  • のち征東将軍に転じ、仮節都督青・徐諸軍事となった。農業を広め穀物を蓄え、二年分の備蓄を持ち、東征台を設置し、耕作と守備を兼ねさせた。また諸郡に水路を通し舟運の便を図り、厳重に防備を整えて敵に備えた。海辺は無事であった。

人柄と最期、子の胡威

  • 性格は沈着で内省的、節度をもって人に接することはなかったが、任地では慕われた。嘉平二年に没し、家に余財はなく賜られた衣服と書籍箱があるのみであった。軍師が上聞し、陽陵亭侯を追封され食邑百戸、諡は貞侯。子の胡威が跡を継いだ。嘉平六年、詔書で胡質の清廉な行いを褒め、その家に銭穀を賜った(その経緯は〈徐邈伝〉に見える)。
  • 胡威は咸熙年間に徐州刺史に至った。『晋陽秋』によれば胡威は字を伯虎といい若くして志操高く清廉であった。父胡質が荊州にあったとき、胡威は京都から見舞いに赴いた。家が貧しく車馬・従者もなく、胡威は自ら驢馬を駆り単身で赴いて父に拝謁した。厩に十余日滞在して帰るとき、胡質は絹一匹を旅費として与えた。胡威が跪いて「父上は清廉なのに、どうしてこの絹を得られたのですか」と尋ねると、胡質は「これは私の俸禄の余りで、お前の食糧に充てるものだ」と答え、胡威はこれを受けて帰路についた。宿ごとに自ら驢馬を放牧し薪を取って炊事をし、食後は再び旅を続けた。
  • 胡質の帳下都督は普段面識がなかったが、胡威が帰る前に休暇を願い出て、あらかじめ百余里先で待ち構え、道連れとなり万事を手伝い、食事も供して数百里を同行した。胡威は不審に思い密かに問い質してその都督であると知ると、先に父から賜った絹を取り出して謝礼として渡し帰らせた。後に別の便りでこの一件を父に伝えたところ、胡質はその都督を杖百に処し官職を除名した。父子ともにこのように清廉慎み深かった。
  • こうして名声が広まり要職を歴任した。晋武帝に召見された際、辺境の事や父の生涯について語り合った。武帝が胡質の清廉さを称え「お前の清廉さは父と比べてどうか」と尋ねると、胡威は「私は父に及びません」と答えた。武帝が「なぜ及ばないのか」と問うと「父の清廉は人に知られることを恐れ、私の清廉は人に知られないことを恐れます。これが私の遠く及ばぬところです」と答えた。官は前将軍・青州刺史に至り、太康元年に没し鎮東将軍を追贈された。
  • 弟の胡羆(字季象)は征南将軍、子の胡奕(字次孫)は平東将軍となり、いずれも清廉な行いで名を残した。優れた功績があり三郡の太守を歴任し、安定で没した。