三國志卷二十七 徐胡二王傳第二十七 徐邈
徐邈(字は景山、燕国薊県の人)は曹操に招かれ丞相軍謀掾から出仕し、文帝・明帝朝で地方長官・涼州刺史などを歴任した。涼州刺史として塩池・水田の整備や羌胡との交渉に治績を挙げ、恩賞をすべて将士に分け与える清廉な人柄で知られた。晩年は司空への招請も固辞し、嘉平元年、七十八歳で自宅にて没した。
出自と初期の官歴
- 徐邈、字は景山、燕国薊県の人である。曹操が河朔(河北)を平定すると招かれて丞相軍謀掾となり、試みに奉高県令を守り、のち入朝して東曹議令史となった。
- 魏国建国の際、尚書郎となった。当時禁酒令が敷かれていたが、徐邈はひそかに飲酒し泥酔することがあった。校事の趙達が政務について尋ねると、徐邈は「聖人に中った(酒の隠語)」と答えた。趙達がこれを曹操に告げ曹操は激怒したが、度遼将軍の鮮于輔が「酒の澄んだものを聖人、濁ったものを賢人と呼ぶ隠語があり、徐邈は謹厳な性格でたまたま酔って口にしただけです」ととりなし、処罰を免れた。
- のち隴西太守を経て南安太守に転じた。文帝の即位後は譙国相、平陽・安平太守、潁川典農中郎将を歴任し、それぞれの任地で治績を挙げ、関内侯に叙せられた。
- 文帝が許昌に行幸した際「またあの聖人に中ったか」と尋ねると、徐邈は「昔、子反は穀陽で酒に溺れて斃れ、御叔は飲酒で罰せられました。臣も同じ嗜好で自ら戒められませんが、宿瘤(醜女)が醜さゆえに名を伝えられたように、臣は酔いによって名を知られました」と答え、文帝は大笑し「名は虚しく立たぬものだ」と側近に語った。のち撫軍大将軍軍師に昇進した。
涼州刺史としての治績
- 明帝は涼州が遠く隔たり南は蜀の侵攻に接することから、徐邈を涼州刺史とし、使持節・領護羌校尉とした。着任時、諸葛亮が祁山に出撃し隴右三郡が反乱すると、徐邈は参軍と金城太守らを遣わして南安の賊を撃破させた。
- 河西は雨が少なく食糧不足に苦しんでいたため、徐邈は武威・酒泉の塩池を整備して異民族から穀物を得、また水田を大きく開いて貧民に耕作させ、家々が豊かになり倉庫は満ちた。州の軍用の余剰を用いて金帛・犬馬を取引し、中原への供給にも充てた。
- 民間の私有の武器を漸次収めて府庫に蔵し、その後は仁義をもって民を率い、学校を興し、厚葬を禁じ、淫祀を断ち、善を進め悪を退けたことで風化が大いに行われ、百姓は心服した。西域との交通が開け遠方の異民族が朝貢したのも徐邈の功績であった。
- 反乱羌の柯吾を討って功を立て、都亭侯に封ぜられ食邑三百戸、建威将軍を加えられた。羌・胡族との交渉では小さな過ちは問わず、大罪の場合はまず部族の長に告げて知らせ、死罪に当たる者だけを斬って見せしめとしたため、信服と畏敬を得た。
- 恩賞はすべて将士に分け与え自らの家には入れなかったため妻子の衣食にも事欠いたが、天子はこれを聞いて嘉し、随時その家に物資を給した。邪を糾し不正を正し、州内はよく治まった。
晩年
- 正始元年、大司農として召還され、のち司隷校尉に転じ、百官はみな敬い憚った。公事により官を去った。のち光禄大夫となり、数年で司空に任ぜられそうになったが、徐邈は「三公は道を論ずる官であり、適任者がなければ欠くべきもの。老病の身でどうして忝くすることができようか」と固辞して受けなかった。
- 嘉平元年、享年七十八で大夫として自宅で没し、公の礼をもって葬られ、諡は穆侯。子の徐武が跡を継いだ。
- 嘉平六年、朝廷は清節の士を追慕し、詔して「賢を顕し徳を表すのは聖王の重んじるところ、善を挙げて教えるのは孔子の美とするところである。故司空徐邈、征東将軍胡質、衛尉田豫はみな前朝より仕え四代にわたり歴事し、外に出ては軍を統べ、内に入っては政務を助け、忠清公にあり国を憂え私を忘れ、産業を営まず、没後家に余財がなかった。朕はこれを甚だ嘉する」とし、徐邈らの家に穀二千斛、銭三十万を賜い天下に布告した。
人物評
- 同郡の韓観(字曼遊)は識見と器量があり徐邈と斉名したが、孫礼・盧毓に先んじて豫州刺史となり治績を挙げ在官のまま没した。『魏名臣奏』所収の黄門侍郎杜恕の上表には「韓観・王昶はまことに兼才あり、その高官重任は三州にとどまらぬ」とある。
- 盧欽は著書の中で徐邈を評し「徐公は志高く行い潔く、才は博く気は猛々しい。それを施すや高くして狷介ならず、潔くして偏らず、博くして節度を守り、猛々しくして寛容である。聖人ですら清廉を難しいとするが、徐公にはそれが容易であった」と述べた。
- ある人が盧欽に「徐公は武帝の時代には人々に通達の人と見られ、涼州から帰京してからは偏屈と見られたのはなぜか」と尋ねると、盧欽は「かつて毛玠・崔琰らが権勢を握り清廉な士を貴んだ時、多くの者が装いを変えて名声を求めたが、徐公は常のままを変えなかったので通達と見られた。近ごろは天下が奢侈となり互いに模倣し合うようになったが、徐公は変わらず俗に流されないので、以前の通達がいまは偏屈と見られるのだ。これは世人が常を持たないからで、徐公が常を持っているからに他ならない」と答えた。