三國志卷二十四 韓崔高孫王傳第二十四 王觀

出自と地方官としての公心

  • 王観、字は偉台。東郡廩丘の人。若くして孤貧の身ながら志を励まし、太祖に丞相文学掾に召され、高唐・陽泉・酇・任の令を歴任しいずれも治を称された。文帝践阼で尚書郎・廷尉監に入り、南陽・涿郡太守に出た。涿は北に鮮卑と接し寇盗がしばしば起こったため、観は辺民十家以上を屯居させ京候を築かせ、時に嫌がる者には吏を仮遣し子弟を助けさせ期会を強いず事終われば各々還るとしたところ吏民は督されずとも自ら勧め合い旬日のうちに一時にできあがり、寇鈔は止んだ。明帝即位で郡県を劇・中・平の三等に条分するよう詔した際、主者が郡を中平と言おうとしたが観は「この郡は外虜に濵く近く数々寇害があるのになぜ劇でないと言うのか」と諭し、主者が「外劇となれば明府に任子が要る」と案じても観は「君たる者は民のためにあるもの、太守の私のために一郡の民を負わせてよいものか」と述べ、外劇郡と申告し任子を鄴に送った。当時観にはただ一人の幼弱な子しかなかったが、その公心はこの通りであった。身を治めること清素で下を率いるに倹をもってし、僚属もこの風を承け自ら励んだ。

明帝・斉王朝の直言

  • 明帝が許昌に幸した際、治書侍御史に召され行台の獄を典り、倉卒な喜怒に阿ることがなかった。太尉司馬懿が従事中郎に招き、尚書に遷り河南尹に出て少府に徙った。大将軍曹爽が材官張達に家屋の材や私用の物を作らせていたことを観は聞き知り、すべて録し没官とした。少府は三尚方・御府の内蔵の玩弄の宝を統べており爽らは奢放でしきりに求めたが、観が法を守るのを憚り太僕に転任させた。司馬懿が爽を誅する際、観に中領軍を行わせ爽の弟羲の営に拠らせ、関内侯を賜り再び尚書に入って駙馬都尉を加えた。高貴郷公即位で中郷亭侯に封ぜられ、ほどなく光禄大夫を加えられ右僕射に転じた。常道郷公即位で陽郷侯に進封され邑千戸を増し前と合わせ二千五百戸となった。司空に遷るも固辞したが許されず、使者を遣わして邸で拝授させると、就官数日にして印綬を送り自ら輿に乗り里舎に帰った。家で薨じ、遺言で棺の入る足りるだけの墓とし明器を設けず封土も植樹もせぬよう命じ、粛侯と諡された。子の悝が嗣ぎ、咸熙中に開建五等の制で観の勲功により悝を膠東子に改封した。

史論

  • 評曰。韓曁は静居して化を行い出でては任職の称を流し、崔林は簡樸にして知能あり、高柔は法理に明るく、孫禮は剛断伉厲、王觀は清勁貞白、いずれも公輔に致る器量を備えていた。曁が年八十を過ぎて起家し列に就いたこと、柔が官を二十年保ち元老として位を終えたことは、これを徐邈・常林に比べればなお疚しいところがあると言うべきである。