三國志卷二十四 韓崔高孫王傳第二十四 高柔
陳留圉の人、字は文恵(?–景元四年)。曹操政権下から法制整備に携わり、刑罰の軽減や校事の弊害是正など数々の直諫を行った法理家。文帝・明帝・斉王・高貴郷公の四代に仕えて太尉に至り、九十歳で没した長寿の元老。
出自
- 高柔、字は文恵。陳留圉の人。父の靖は蜀郡都尉であった。『陳留耆旧伝』は靖の高祖父固が新の王莽に仕えず淮陽太守に害され烈節で名を残したこと、固の子慎(字孝甫)が敦厚で沈深な量を持ち兄の遺児五人を厚く撫育し琅邪相何英にその行いを認められ娘を娶ったこと、慎が二県令・東萊太守を歴任し老病で帰郷しても清貧を貫き「勤身清名を子孫に遺すのがよい」と語ったこと、子の式が至孝で永初中の螟蝗の害でも独り麦を食われず孝廉に挙げられたこと、その子昌・賜も刺史・郡守となり、式の子弘(孝廉)が柔の父靖を生んだことを詳しく伝える。
乱世の避難と魏への帰属
- 柔は郷里に留まり「今英雄並び起こり、陳留は四戦の地、曹将軍は兖州に拠るがまだ安坐する時ではない、張府君(張邈)が先にこの地に志を得ており変事を恐れる、諸君と避けたい」と述べたが、人々は張邈と太祖の親善を頼み柔の若さもあって信じなかった。柔の従兄(または従父)幹は袁紹の甥で河北から柔を呼び、柔は一族を挙げて従った。父靖が西州で没すると、道は険しく兵寇が横行する中を柔は自ら蜀へ赴き喪を迎え、辛苦を尽くして三年後にようやく帰った。
太祖への仕官と刑法の整備
- 太祖が袁氏を平定すると柔を菅長とし、姦吏数人は自ら官を辞したが、柔は「昔邴吉は政に臨んでも吏の過ちをなお容れた、まして彼らに未だ失なきをや」と召し戻し、皆自ら励んで良吏となった。高幹が降ってのち并州で叛くと、柔は自ら太祖に帰したが太祖は事に因んで誅そうとし、刺姦令史として法を処すること公正で獄に滞りなく丞相倉曹属に招かれた。『魏氏春秋』は柔が処法に平允でありながら夙夜懈らず、擁膝して文書を抱いたまま眠ることがあり、太祖が夜に微行して見かけ哀れみ裘を解いて覆って去ったこと、これを機に重用されたと伝える。太祖が鍾繇らに張魯討伐を命じようとした際、柔は大兵を西に遣わせば韓遂・馬超が己への攻撃と誤解し将相が扇動するとして三輔の先撫を諫め、果たして繇が入関すると遂・超は反した。
丞相理曹掾としての諫言
- 魏国建国後、尚書郎となり丞相理曹掾に転じた。太祖の令には「治定の化は礼を首とし撥乱の政は刑を先とする、掾は清識平当にして憲典に明るく勉め恤れよ」とあった。鼓吹の宋金らが合肥で逃亡し、旧法では軍征の亡卒の妻子を考竟すると定められていたが、太祖はなお足りぬとして刑を重くしようとし、金の母妻や二弟を尽く殺すことが議されていた。柔は「亡軍は憎むべきだが中にはひそかに悔いる者もある、妻子を貸せば賊中への不信を生み誘って還る心を促せる、正しく前科のままでもすでに意望は絶たれているのに更に重ねれば、今後亡逃する者を誅すれば己に及ぶと恐れ相従って逃げ、殺すこともできなくなる、この重刑はかえって亡を止めず走を益すだけだ」と啓し、太祖はこれを善しとし金の母・弟を殺すのをやめ、多くの命が救われた。
校事諫諍と諸太守歴任
- 潁川太守に遷りのち法曹掾に還った。校事盧洪・趙達らが群下を監視する制が置かれると、柔は「官を設け職を分けるのは各々司る所があるためで、校事を置くのは上信下の旨に非ず、達らはしばしば愛憎で威福を作しており取り締まるべきだ」と諫めたが、太祖は「叔孫通が群盗を用いた故事もある」として聞かず、後に達らの姦利が発覚すると太祖はこれを殺し柔に謝した。
文帝朝の直諫
- 文帝践阼で治書侍御史となり関内侯を賜り治書執法に転じた。民間で誹謗妖言がしばしば起こり帝はこれを疾んで妖言者を即座に殺し告発者に賞を与えていたが、柔は「妖言者を必ず殺し告発者を必ず賞すれば過誤の者に反省の道を閉ざし、凶狡な者が互いに誣告し合う端を開くだけ、周公が殷の祖宗を称えて小人の怨みを顧みなかった故事や漢の太宗が妖言誹謗の令を除いた故事に倣い、賞告の法を除くべき」と上疏したが帝はすぐには従わず誣告はますます増えた。帝はやがて「誹謗を以て相告げる者はその告げられた罪でこれを罪する」と詔し、これによって絶えた。校事劉慈らが黄初初年から数年の間に万を数える吏民の姦罪を挙げていたが、柔はすべて虚実を糾すよう請い、その他の小さな触法者は罰金にとどめた。黄初四年、廷尉に遷った。
三公の議政と鮑勛の一件
- 魏の初め三公は事なく朝政に希にしか与らなかった。柔は「成湯は阿衡の佐を杖とし文武は旦・望の力に憑ったように、公輔の臣は国の棟梁でありながら三事に置かれ政を知らされず偃息しているのは崇用の義に非ず、疑議や刑獄の大事はしばしば三公に諮り、朔望には特に延入して得失を論じるべき」と上疏し、帝はこれを嘉納した。帝が宿嫌により治書執法鮑勛を法を枉げて誅そうとした際、柔は固くこれに従わず、帝は激怒し柔を台に召したが、使者を廷尉に遣わして勛を考竟させ、勛が死んでから柔を寺に還した。
明帝朝の諫言(儒学・後宮・大石山の虎)
- 明帝即位で延寿亭侯に封ぜられた。博士が経を執る儀に際し、柔は漢末の乱離で儒林が幽隠していたが太祖・高祖の代に学を興し庠序の教が復興した経緯を述べ、博士の位が長を過ぎぬ限りであることを憂え、優劣に応じ不次の位を与えるよう説き、帝は納れた。宮殿の造営で百姓が疲弊し衆女を採り後宮を充たすも皇子が相次いで夭折し嗣子が育たぬ折、柔は二虜(呉・蜀)に備え兵を養い甲を治すべきときに宮殿を興すのは軍事の虚実を敵に知らせる危険があると諫め、軒轅の二十五子・周室の四十姫国の故事を引いて淑媛のみ簡び他は還すよう説き、帝は「卿の忠允、心は王室にあり」と答えた。宜陽典農劉龜が禁地で兎を射た事件で、帝が告発者の名を秘したまま龜を獄に付そうとすると、柔は「廷尉は天下の平、至尊の喜怒で法を毀してよいのか」と告発者の名を請い、帝はついに名を下し訊問はそれぞれの罪に応じた。喪に服す官吏解弘が病を理由に軍事を辞そうとして帝の怒りを買った際、柔は弘の衰弱の実情を奏し、帝は「孝なるかな弘や」と赦した。
公孫晃の処遇を巡る諫言
- 公孫淵の兄晃は叔父恭に仕え内侍となり淵の反乱を予め幾度も告げていたが、淵の謀反後、帝は市で斬るに忍びず獄で殺そうとした。柔は「書に『罪を用いて厥の死を伐ち、徳を用いて厥の善を彰す』とある、晃は先に自ら帰し淵の禍萌を陳べており、凶族とはいえ原心すれば恕すべき、仲尼が司馬牛の憂いを諒とし祁奚が叔向の過ちを明らかにした故事に倣い、晃に言あらば死を貸すべく言なくば市で斬るべき、今その命を赦さず罪も明らかにせず囹圄に閉じ自ら引分させるのは四方の疑いを招く」と上疏したが帝は聴かず、晃と妻子に金屑を飲ませ棺・衣を賜い宅で殯歛させた。裴注は孫盛の長論(質任の制は古の盟誓に発するとし、公孫晃の処断の是非を人情と権謀の観点から論じる)と、これに対する裴松之自身の反駁(三方鼎峙の情勢下で親族を人質にとることは非とすべきでなく、晃には先言の功があり原心の宥に値するとする)を併せ伝える。
禁猟と竇礼殺害事件の裁き
- 禁地の鹿を殺す者は身を死に財産を没官とし、告発者には厚く賞するという法が行われていたが、柔は「農を広め用を倹すれば穀積み財畜わるが、獵禁により群鹿が生苗を食い荒らし民は防ぎ得ず熒陽の辺りでは歳ごとにほぼ収穫がない有様、天下の生財少なく麋鹿の損なう所多い今、獵禁を解いて鹿を捕らせるべき」と繰り返し上疏した。『魏名臣奏』は柔がさらに禁地の虎・狼・狐の頭数から鹿を食う量を具体的に算定し、鹿は蕃息せず日ごとに減るのみゆえ早く猟を解いて用いるべきと説いたことを伝える。護軍営士竇礼が近くに出て戻らず亡命と見なされ妻子が官奴婢に没されそうになった際、柔は妻盈の訴えを丹念に聴き、竇礼が単特の身で母を養い妻子を愛する人柄であったこと、同営士焦子文と金銭の貸借があったことを聞き出し、子文を尋問してその動揺を見抜き、ついに子文が礼を殺し埋めた顛末を白状させ、詔で盈母子は平民に復された。
晩年
- 在官二十三年、太常に転じ旬日で司空に遷り、のち司徒に徙った。太傅司馬宣王が曹爽の免官を奏した際、皇太后は柔に節を仮し大将軍事を行わせ爽の営に拠らせ、司馬懿は柔を「君は周勃なり」と称えた。爽誅殺後、万歳郷侯に進封。高貴郷公即位で安国侯に進封され太尉に転じた。常道郷公即位で邑を増し前と合わせ四千戸、二子を亭侯に封じた。景元四年、九十歳で薨じ元侯と諡された。孫の渾が嗣ぎ、咸熙中に開建五等の制で柔の勲功により渾を昌陸子に改封した。晋諸公賛は柔の長子儁が大将軍掾、次子誕が三州刺史・太僕を歴任し放率不倫ながら決烈は人に過ぎたこと、次子光(字宣茂)が晋武帝の世に黄沙御史・廷尉を歴任し兄誕に軽んじられながらも誕によく仕え、終に尚書令に至り司空を追贈されたことを伝える。