三國志卷二十四 韓崔高孫王傳第二十四 崔林
清河東武城の人、字は徳儒(?–正始五年)。大器晩成の相と評されながら太祖に見出され、幽州刺史・大鴻臚を経て司空に至った。辺境統治や礼制論議で識見を示し、三公が列侯に封ぜられる先例を開いた。
出自と早年
- 崔林、字は徳儒。清河東武城の人。若い頃は大器晩成の相で宗族の誰にも知られなかったが、従兄の琰だけがその非凡さを見抜いた。太祖が冀州を平定すると鄔長に召され、貧しく車馬もなく単身徒歩で赴任した。太祖が壺関を征した際、長吏で徳政最なる者を問うと并州刺史張陟が林を挙げ、冀州主簿に抜擢され別駕・丞相掾属に転じた。魏国建国後、御史中丞に遷った。
幽州刺史としての判断
- 文帝践阼で尚書を拝し幽州刺史に出た。北中郎将呉質が河北の軍事を統べ、涿郡太守王雄が林の別駕に「呉中郎将は上に親重され州郡は皆牋を奉じ敬を致すのに崔使君だけが通じていない」と伝えると、林は「刺史がこの州を去るのは脱いだ履のように容易い、なぜ煩わされねばならぬのか、この州は胡虜に接し静を以て鎮めるべきで動かせば逆心を招き国家に北顧の憂いを生む」と答えた。在官一期の間、寇賊は鎮まった。裴注は『王氏譜』により王雄(字元伯、太保王祥の宗)の経歴と、『魏名臣奏』に載る安定太守孟達の推薦文(雄の才略・治績を称える内容)、太祖の詔(蕭何が韓信を、鄧禹が呉漢を薦めた故事を引き、士は先ず散騎を経て州郡に出すのが本意であるとする)を伝え、また『魏名臣奏』に載る辛毗の奏(桓階が崔林を尚書の才に非ずとして河間太守に遷したとする本伝と異なる説)も併せ伝える。
大鴻臚から司空へ
- 大鴻臚に遷った。亀茲王が侍子を遣わし来朝すると朝廷はその遠来を嘉し厚く襃賞した。他国も相次いで子を遣わし朝貢したが、林は遣わされた者が真の王族でなく疏遠な胡人が印綬目当てに通じているのではと疑い、道路の護送に費用がかさむことも憂え、燉煌に書を移して前代の待遇の故事を録し恒常の基準を示した。明帝即位で関内侯を賜り光禄勲・司隷校尉に転じ、属郡の非法な員吏をすべて罷免した。林の為政は誠を推し大体を存し、去った後も常に思慕された。散騎常侍劉劭が「考課論」を著し百官に下された際、林は周官の考課の法や太祖が随宜に法を設けた故事を引き、当今の制度は疎闊ではなく、要は一を守り失わぬことにあると論じた。景初元年、司徒・司空がともに欠けた際、散騎侍郎孟康が林の忠直清儉を称えて推薦し、のち司空となり安陽亭侯に封ぜられ邑六百戸を得た。三公が列侯に封ぜられるのは林に始まる(裴松之は漢が丞相に邑を封じ荀恱に譏られた故事を引き、魏の三公封侯もこれと同じ失であるとする)。ほどなく安陽郷侯に進封された。
孔子廟祭祀を巡る議論
- 魯相が旧来の孔子廟祭祀の礼を挙げ、宗聖侯(孔子の後嗣)にも命祭の礼を給すべきと上言した。三府での議で博士傅祗は春秋伝の祀典を引き孔子を祀るべしとしたが、林は「宗聖侯は既に王命による祀を受けており未だ命祭が無いわけではない、周武王が黄帝・堯・舜・禹・湯の後を封じ三恪を立てた例に照らせば、今独り孔子のみを祀るのは世の近さゆえであり、大夫の後にして無疆の祀を受けるのは礼を古帝に過ぎ義は湯武を踰えるもので、崇明報徳と言うべく他族に重ねて祀る必要はない」と論じた。裴松之は孟軻の伝える宰我の言(孔子は堯舜に賢ること遠く、生民以来これほど盛んな者はいない)を引き、林の見識が浅く時勢を弁えないと批判する。
晩年
- 明帝は林の邑を分け一子を列侯に封じた。正始五年薨じ孝侯と諡され、子の述が嗣いだ。晋諸公賛は述の弟随が晋の尚書僕射となり、趙王倫の簒位に与したが倫が敗れると廃錮のまま卒したと伝える。林の孫瑋は率直だが疎放な性で太子右衛率に至った。かつて林が同郡の王経をまだ庶民の身分の中から見出しており、経がのちに名士となったことで、世はこれを称えた。