三國志卷二十一 王衛二劉傅傳第二十一 劉廙

出自と兄望之の死

  • 劉廙、字は恭嗣。南陽安衆の人。十歳の頃、講堂で戯れていたのを潁川の司馬徽(徳操)が「黄中通理(易の言葉)を自ら知っているか」とその頭を撫でて問うた逸話が伝わる。
  • 兄の劉望之は世に名を知られ、劉表の従事に辟されたが、親しい友二人が讒言で誅されたことに正諫して容れられず、官を辞して帰った。廙は望之に、趙簡子が賢臣の犢犨・鐸鳴を殺した後に孔子が黄河を渡らず引き返した故事(『新序』所引)を引き、柳下恵のように和光同塵するか范蠡のように身を引くべきだと説いたが、望之はこれに従わず、まもなく殺害された。
  • 廙は難を恐れて揚州へ逃れた。『廙別伝』は道中で廙が劉表に詫びる牋文を送り、兄の禍と自身の危機を述べたことを伝える。『傅子』は、劉表が望之を殺したことで荊州の士人が皆おびえたこと、表が全楚の地を有しながら大業を成せなかったのは直言を容れる度量がなかったためだと論じ、伯夷・叔斉が武王に逆らって名を成し丁公が高祖に順って戮せられた古事を引いて度量の重要性を説く。

曹操への帰服

  • 廙はのち太祖に帰し、丞相掾属に辟され五官中郎将文学に転じた。文帝は廙を重んじ草書を習わせようとしたが、廙は尊卑の分を守り安易に応じることを憚りつつも、郭隗を軽んじなかった燕の故事や九九の術を軽んじなかった斉桓公の故事(『戦国策』)を引いて謙譲の意を示しつつ命に従う旨を返答した。魏国建国後、黄門侍郎となった。

曹操の蜀征討への諫言

  • 太祖が長安で自ら蜀征討に赴こうとした際、廙は上疏し、楽毅が弱燕で強斉を破りながら即墨を落とせなかった故事を引き、必死の覚悟で臨む敵と自壊しつつある敵とでは形勢が異なると説いた。太祖が三十余年の征戦で常勝してきたが、孫権・劉備は袁紹ほどの実力はなくとも自ら必死に守る立場にあり、文王が崇を攻めて三度退き徳を修めてから服させた故事や、秦が諸侯として常勝しながら天下統一後に匹夫の一呼で崩れた故事を引き、要害の地を選んで守り、農桑と節約に努めて国力を養うべきだと諫めた。太祖はこれに応え「私だけが君を知るのではなく君も私を知るべきだ、今西伯(周文王)の徳を行うのはまだ早い」と返した。

弟の連座からの赦免と晩年

  • 魏諷の謀反に廙の弟偉が連座し処刑対象となったが、太祖は「叔向は弟の虎の罪に連座しなかった古の制がある」として廙を特に赦した。『廙別伝』は、廙がかつて偉に魏諷との交友を戒め「諷は徳行を修めず徒党を集めるだけの華而不実の人物、必ず世を乱す名利の徒」と警告したが偉が従わず難に遭ったこと、廙が丞相倉曹属に左遷された際に上疏で「臣の罪は宗族を傾け一族を滅ぼすに値するが、乾坤の霊と時運により湯を止め炭を消すように救われた」と感謝したことを伝える。
  • 『廙別伝』所載の『論治道』上表は、周の乱臣十人のうち婦人を除けば九人しかいなかった故事(孔子「才難し」)を引いて賢者を得る難しさを説き、乱後の人材払底の中で頻繁な官の異動が姦巧を招き実効ある統治を妨げていることを批判し、州郡の毀誉による黜陟ではなく実務の実績(戸口・墾田・盗賊・逃亡の増減)に基づく三年ごとの総合評価を提案するもので、太祖に善しとされた。廙は数十篇の著書を残し、丁儀と刑罰・礼制を論じた著作も世に伝わった。
  • 文帝が王位に即くと廙は侍中となり関内侯を賜ったが、黄初二年(221年)、享年四十二で没した。子がなく、帝は弟の子の阜を後継とした。『劉氏譜』によれば阜(字伯陵)は陳留太守、その子喬(字仲彦)は恵帝末に豫州刺史となった。