三國志卷二十一 王衛二劉傅傳第二十一 衞覬

出自と関中での活動

  • 衞覬、字は伯儒。河東安邑の人。若くして学才で知られ、太祖に司空掾属として辟され茂陵令・尚書郎を歴任した。太祖の袁紹征討時、劉表が紹を援ける中、益州牧劉璋と表の不和に乗じ、覬は治書侍御史として益州に赴き璋に出兵を促す任を受けたが、道が通じず長安に留まり関中鎮撫に当たった。
  • 覬は荀彧への書簡で、関中に流入した十万余家の荊州避難民が帰郷を望むも生業がなく諸将の部曲に取り込まれ官の力が及ばぬ危険を説き、塩の専売を復して代金で耕牛を購い帰民に給し、司隷校尉を関中に常駐させて諸将の勢力を削ぐ策を提言した。荀彧がこれを太祖に伝えて採用され、謁者僕射が塩官を監督し司隷校尉が弘農を治めることとなり、関中は帰服した。覬は召還され尚書に遷った。

魏国建国後の制度整備と文帝朝

  • 『魏書』は、漢朝の遷都以来乱れていた台閣の旧事を覬が古義により多く正定したこと、司隷校尉鍾繇が張魯討伐を名目に三千の兵で関に入ろうとした際、覬が「関西諸将は雄志なく現状に安んじているだけで大事がなければ変じない、兵を入れれば逆に彼らを疑わせ険阻な地で苦戦する」と反対したが、太祖は鍾繇の意見を採り、結果関右が大叛し太祖自ら親征して万計の死者を出して平定し、太祖は覬の議に従わなかったことを悔い覬をますます重んじたことを伝える。
  • 魏国建国後、覬は侍中を拝し王粲とともに典章制度を掌った。文帝即位で尚書に転じ、のち漢朝の侍郎に還って禅譲の詔文を起草し、文帝践阼後は再び尚書となり陽吉亭侯に封じられた。

明帝朝の上疏と晩年

  • 明帝即位で閺郷侯(三百戸)に進封。覬は律令に通じた官吏の不足を憂え「九章律は古来伝わるが百里の長吏すら律を知らず、獄吏は民の命を左右しながら卑賤に置かれている、律博士を置いて教授させるべき」と上疏し、これが施行された。百姓が困窮する中で労役が盛んだった時期には長文の上疏を行い、人情の機微(君の好悪が臣の富貴生死を左右する構造)を説いた上で、当代の議論者が政を堯舜に例えるのを批判し、天下が三分され諸国が力を尽くす中で降伏者も窮迫ゆえの帰順に過ぎないこと、武帝(曹操)の質素な生活が天下平定の礎になったことを引き、府庫の計算に基づく倹約と農桑奨励を説き、尚方の金銀細工の増加や漢武帝の求仙(雲表の露を求めた故事)を戒めとして諫めた。覬は漢魏を通じて常にこうした忠言を呈したという。
  • 覬は詔により著作を典じ「魏官儀」を著すなど数十篇を撰述し、古文・鳥篆・隷草いずれにも通じた。建安末の尚書右丞潘勗(字元茂、初名芝)は覬とならぶ文才の士で、九錫の策命(魏公曹操への)を起草した人物である。『文章志』はその経歴と、子の潘満(平原太守)、孫の潘尼(字正叔、陸機と詩を贈答した文人)、尼の従父潘岳(字安仁、美貌と才で知られ黄門侍郎から孫秀に殺された)、尼の従子潘滔(字湯仲、河南尹で永嘉末に遇害)に至る家系を伝える。黄初年間の散騎常侍河内の王象も覬と並んで文章で知られた(事跡は「楊俊伝」に見える)。
  • 覬は没後「敬侯」と諡され、子の瓘が嗣いだ。瓘は咸熙中に鎮西将軍となった。『晋陽秋』は瓘(字伯玉)が清廉で名理に長け、弱冠で尚書郎から内外の要職を歴任し晋の尚書令・司空・太保に至ったが、恵帝初年の輔政中に楚王瑋に殺害されたことを伝える。『世語』は瓘が扶風内史索靖とともに草書に長じたと伝える。瓘の子恒(字巨山)は黄門侍郎、恒の子玠(字叔宝)は盛名を得て太子洗馬となったが早世した。