三國志卷二十一 王衛二劉傅傳第二十一 劉劭

劉劭(字は孔才、廣平邯鄲の人)は、建安年間に日食予言をめぐる朝議で見識を示して以来、文帝・明帝朝で尚書郎・散騎常侍などを歴任し、『皇覧』の編纂や新律の制定、官吏考課法の立案に携わった学識の官僚。軍事にも通じ青龍年間の合肥防衛策も献じた。『人物志』『法論』など多くの著述を残した。

年表(8件)
  • 建安中計吏として日食を巡る朝議で朝賀存続を主張し荀彧に容れられる
  • 黄初中尚書郎・散騎侍郎となり『皇覧』を編纂する
  • 明帝即位後陳留太守として教化に努める
  • 青龍中呉の合肥包囲に際し満寵への援軍策を献じる
  • 景初中考課の法「都官考課」七十二条を著す
  • 正始中経を講じ関内侯を賜る
  • 正始六年245年繆襲が六十歳で没する
  • 延康元年220年仲長統が没する

日食予言と皇覧編纂

  • 劉劭、字は孔才。広平邯鄲の人。建安中、計吏として許に赴いた際、太史が元旦の日食を上奏し、朝廷内で朝賀を廃すべきか却下すべきかの議論が起きたが、劉劭は尚書令荀彧の座で「梓慎・裨竈のような古の良史も水火の占いで天時を誤ることがある、聖人が変異を理由に朝礼を廃さない制を定めたのは、災いが実際には起きなかったり術者の推算が誤ったりするからだ」と論じ、荀彧はこれを善しとした。結局朝会は例年通り行われ、日食も起きなかった。
  • 後世、東晋永和年間、廷尉王彪之が揚州刺史殷浩への書で、この劉劭の議論をめぐる後日談(庾車騎が劉劭の論を八座に示し、朝議は荀彧が誤って劉劭の意見に従ったと批判したこと、しかし合朔の礼は元会の礼と異なり、日食の予兆があれば元会だけを却下すべきだとする見解)を紹介し、これに基づき殷浩も元会を却下した経緯が付記される。
  • 御史大夫郗慮が劉劭を辟したが慮の免官により太子舎人・秘書郎に転じた。黄初中、尚書郎・散騎侍郎となり、詔により五経群書を分類編纂した『皇覧』を作った。明帝即位後、陳留太守として教化に努め百姓に称えられ、騎都尉に召されて庾嶷・荀詵らと『新律』十八篇を定め律略論を著した。散騎常侍に遷った。

地方官としての治績と軍事献策

  • 公孫淵が孫権から燕王の号を受けたと聞いた際、討伐論が高まったが劉劭は「かつて袁尚兄弟が淵の父康を頼った際、康は二人の首を斬って送った先例があり、淵の先代は忠を効した実績がある、寛大な処置で自新の機会を与えるべき」と説いた。のち淵は実際に孫権の使者張弥らを斬って首を送った。劉劭は「趙都賦」を著して明帝に称えられ、「許都賦」「洛都賦」の作を命じられたが、軍事・宮室造営が続く中でこれらの賦にも諷諫の意を込めた。
  • 青龍中、呉が合肥を包囲した際、東方の吏士が休暇で分散していたため、征東将軍満寵が中軍の増援を求めた。劉劭は「敵は新到で気鋭だが、寵が寡兵で自ら守るには不安がある、歩兵五千・精騎三千を先発させ旗鼓を盛んに示して敵の後方を突き糧道を断てば、敵は騎兵に退路を断たれたと恐れて自壊するだろう」と献策し、帝はこれに従った。援軍が合肥に到着する頃には敵は退いていた。
  • 散騎侍郎夏侯恵は劉劭を「深忠篤思、あらゆる分野に通じ、性実の士は其の平和良正を、清静の人は其の玄虚退譲を、文学の士は其の推歩の詳密を、法理の士は其の分数の精比を…と各人が己の得意に引きつけて称賛する稀有の人物」と推薦する上表を行った。裴松之は、この推薦の中の「玄虚退譲」「明思通微」の評はやや過賞に近いと注記する。

考課論と著述

  • 景初中、劉劭は詔により官吏考課の法を作るよう命じられ、「都官考課」七十二条と「説略」一篇を著したが、自らその内容が聖旨を十分に宣揚できていないと謙遜する上疏を添えた。また礼楽を制して風俗を移すべきとし『楽論』十四篇を著したが、完成前に明帝が崩じ施行されなかった。正始中、経を執って講学し関内侯を賜った。撰述はほかに『法論』『人物志』の類百余篇に及んだ。没後、光禄勲を追贈され、子の琳が嗣いだ。

附・繆襲

  • 劉劭と同時代の東海の繆襲もまた才学があり多くの著述を残し、官は尚書・光禄勲に至った。『先賢行状』は父の繆斐(字文雅)が経伝に通じ孝行で知られ、六たび公府に辟されながら就かなかったことを伝える。『文章志』は繆襲(字熙伯)が御史大夫府に辟され魏の四代に仕え、正始六年(245年)六十歳で没したこと、子の恱(字孔懌)が晋の光禄大夫となったこと、孫の紹・播・徴・胤らがみな顕達したことを伝える。

附・仲長統

  • 繆襲の友人、山陽の仲長統は漢末に尚書郎となり早世した。著書『昌言』は文辞優れ観るに足るとされる。繆襲が撰した『統昌言表』は、統が若くして学を好み書記に広く通じ文辞に富んだこと、并州刺史高幹の招きに応じたが「君は雄志があっても雄才なく、士を好みながら人を選べない」と評して立ち去った直後に幹が敗れたこと、大司農常林が統の倜儻直言で小節に拘らず時に狂と評された性格を伝えたこと、荀彧の推挙で尚書郎となり太祖の軍事に参与したのち延康元年(220年)四十余歳で没したことを伝える。統は古今の世俗の行事を論じては憤慨し、それを『昌言』二十四篇にまとめた。

附・蘇林・夏侯惠・孫該・杜摯

  • 散騎常侍陳留の蘇林(字孝友)は博学で古今の書伝の疑義を釈き、建安中に五官中郎将文学、黄初中に博士給事中となり、文帝『典論』が称える蘇林とはこの人物である。老いて致仕し八十余歳で没した。
  • 光禄大夫京兆の韋誕(字仲将、太僕韋端の子)は文才に優れ、建安中に郡上計吏から郎中に抜擢され侍中中書監に遷り、光禄大夫として退官後七十五歳で没した。邯鄲淳・衛覬とともに書に長じ名があった。衛覬の孫衛恒が著した『四体書勢』は、古文(秦の篆書統一以来絶えていたが魯恭王が孔子宅を壊して発見した経書に由来し邯鄲淳が伝えたとされる)・篆書(李斯以来の系譜で邯鄲淳・韋誕へ)・隷書・草書(漢の杜度に始まり崔瑗・崔寔、張芝(伯英)へと至る系譜、韋誕が張芝を「草聖」と称した逸話)の由来を詳しく述べる。
  • 楽安太守譙国の夏侯恵(夏侯淵の子、事跡は「淵伝」)、陳郡太守任城の孫該(字公達、二十歳で上計掾から郎中に召され『魏書』を著し景元二年(261年)没)、郎中令河東の杜摯らも文賦を著し世に伝わった。摯(字徳魯)は毌丘倹と親しく、仙薬を求める詩を贈答した逸話(挫折した才人としての心境を詠む摯の詩と、倹の慰めの返詩)が伝わるが、摯は昇進を得ぬまま秘書で没した。廬江の何氏『家伝』は、明帝時の神童胡康(十五歳で見出され祕書で典籍を博覧したが、祕書丞何禎に「才はあるが性質不端、必ず失敗する」と評された通り後に過失で譴責された)の逸話を伝えるが、裴松之はこれを孟康の誤伝ではないかと注記する。