三國志卷二十一 王衛二劉傅傳第二十一 傅嘏
傅嘏(字は蘭石、?–255年)は北地泥陽の人で、前漢の傅介子の後裔。若くして人物眼に優れ、何晏・鄧颺・夏侯玄ら当時の名士と一線を画した。曹爽政権下で何晏を批判して免官されたが、司馬懿・司馬師父子に信任され、対呉戦略の建策や毌丘倹・文欽の乱平定に功を挙げた。才性論でも知られる魏末の重臣。
年表(7件)
- 正始初め尚書郎から黄門侍郎に遷り、曹羲に何晏を警告して免官される
- 曹爽誅殺後河南尹となる
- 嘉平五年(253年)正月三征の呉出兵で東関において魏軍が諸葛恪に大敗する
- 嘉平末関内侯を賜る
- 高貴郷公即位後武郷亭侯に進封される
- 正元二年(255年)毌丘倹・文欽の乱に際し司馬師の出征を勧め、乱平定の謀策を尽くす
- 正元二年(255年)陽郷侯に進封されるが、その年薨去。享年四十七
出自と人物評
- 傅嘏、字は蘭石。北地泥陽の人で、前漢の傅介子の後裔。伯父の傅巽は黄初中に侍中尚書となった。『傅子』は祖父傅睿(代郡太守)・父傅充(黄門侍郎)を伝える。嘏は弱冠で名を知られた。当時、何晏は貴戚間で弁才で知られ、鄧颺は徒党を組んで名声を求め、夏侯玄は貴臣の子として重名を得ていたが、嘏はいずれとも交わりを結ばなかった。友人の荀粲は「夏侯玄ほどの傑物と睦まじくしないのは不利益だ」と忠告したが、嘏は「泰初(玄)は志ばかり大きく実才を伴わない、平叔(何晏)は口先だけで誠がない利口の徒、玄茂(鄧颺)は有為だが終わりを全うできぬ、この三人はみな徳を損なう者だ」と答えた。司空陳羣に掾として辟された。
劉劭考課論への反論
- 散騎常侍劉劭が考課法を作った際、三府に諮問が下った。嘏は劉劭の論に対して、周代のような整った制度の遺制は既に絶えて久しく、魏は建国以来撥乱に追われて制度整備の余裕がなかったこと、古の選才は郷閭での品行と学問により郷老が推挙する仕組みだったが、当今は専ら吏部が担い実才と一致しない恐れがあること、根本(官の設置・民物の治理)を措いて末(考課の細則)を先にするのは賢愚の判定に不十分だと批判した。
曹爽政権下での直言
- 正始初め、尚書郎から黄門侍郎に遷った。曹爽が秉政し何晏が吏部尚書となった際、嘏は爽の弟曹羲に「何平叔(晏)は外は静かだが内は狡猾で利を好み本務を顧みない、必ず兄弟を惑わし仁人を遠ざけ朝政を廃す」と警告した。これにより晏らと不仲となり、微罪を理由に免官された。滎陽太守を拝したが赴任せず、太傅司馬懿の従事中郎となった。曹爽誅殺後、河南尹となった。『傅子』は嘏が前任の司馬芝(大綱のみで簡略すぎた)・劉靖(細目に厳しすぎた)・李勝(旧法を破って一時の名声を求めた)の統治を評し、司馬氏の大綱と劉氏の細目を組み合わせて漸進的に整え、七百人の吏の半数を刷新し人材を実質で登用した結果、名声を求めずとも吏民に長く安んじられたことを伝える。
- 嘏は尚書に遷り、秦以来の郡県制が古の礼制と一致しないまま漢魏と踏襲されてきたことを常に論じ、官制の大改定を志したが、帝室多難のため実現しなかった。
対呉戦略の建策
- 孫権死後、対呉出兵を巡り三征(征南大将軍王昶・征東将軍胡遵・鎮南将軍毌丘倹)の献策が分かれ、朝廷は尚書傅嘏に諮問した。嘏は夫差・斉閔王が一時の武威で始まりを飾りながら終わりを全うできなかった故事を引き、孫権の死後、幼主を託された諸葛恪が権の苛政を除けば呉は延命しうると分析した。汎舟渡江・四道並進・大佃観衅の三策はいずれも常套だが機に応じねば後患を招くとし、賊軍がなお六十年に及ぶ君臣関係を保っていること、羅落(斥候網)が厳重で我の耳目が届かないことを指摘し、大佃(大規模屯田による長期的圧迫)こそ完牢の策と結論した。要点として、肥沃な土地を奪い敵を痩地に追いやること、糧道を断つこと、招降を進めること、間諜を無力化すること、坐食で兵を疲れさせぬこと、機に乗じ速決できることなど七項目の利を挙げ、樊噲が匈奴への遠征を願い季布に諫められた故事、李信が楚を軽んじて大敗した故事を引いて、性急な遠征を戒めた。
- 朝廷はこの時嘏の言に従わず三征の出兵を命じたが、嘉平五年(253年)正月、諸葛恪の迎撃により魏軍は東関で大敗した。
東関の敗戦後の情勢分析
- のち諸葛恪が東関の勝利に乗じて青・徐方面へ進出する構えを見せ、朝廷が警戒した際、嘏は「淮海は賊が軽々しく通る道ではなく、かつて孫権が海路に兵を送り漂流溺没した先例もあり、恪が根本を賭して洪流に命を寄せることはない、恪は水軍に習熟した偏師を派し青徐に動きを見せつつ本隊は淮南に向けるはずだ」と分析した。裴松之は「乾没」の語義について服虔・如淳の説を検討し、成敗を賭けて事を行う意と理解すべきと注記する。その後実際、恪は新城を攻めたが落とせずに退いた。
才性論と最期
- 嘏は才性同異の論を好み、鍾会がこれを集めて論じた。『傅子』は嘏が治世の理と識見に優れ、若い司隷校尉鍾会と親しく交わったことを伝えるが、裴松之は、嘏が夏侯玄の破滅を見抜いて交わりを絶ちながら鍾会の破滅は見抜けず親しんだ点に矛盾があると論じ、『傅子』のこの一節は嘏の名を益するものではないと批判する。
- 嘉平末、関内侯を賜り、高貴郷公即位後は武郷亭侯に進封された。正元二年(255年)、毌丘倹・文欽の乱に際し、司馬師が自ら出征すべきか議論となったが、傅嘏と王粛だけがこれを勧めた。『漢晋春秋』は、目の腫瘍の術後で重篤だった司馬師が嘏の「淮楚の兵は精強で機を逸すれば大事が敗れる」との言を聞き、蹶然と起き上がって「病を押して東へ赴こう」と応じたと伝える。嘏は尚書僕射代行として師に従い、毌丘倹・文欽の乱平定に謀策を尽くした。司馬師の死後、嘏は司馬昭とともに洛陽に戻り、昭の輔政を後押しした。『世語』は師の危篤時に朝政が嘏に託されたが嘏が固辞し、師の死後は喪を秘して昭を許昌から呼び寄せ軍を統率させた経緯を伝えるが、孫盛はこの記述を「司馬三代の権力継承にささやかな傅嘏が介在する余地はない」と否定する。
- 鍾会がこの功で驕りの色を見せた際、嘏は「君は志が大きいのに功業は難しい、慎むように」と戒めた。嘏はこの功により陽郷侯(合計千二百戸)に進封されたが、その年に薨じた。享年四十七。太常を追贈され「元侯」と諡された。『傅子』は嘏が李豊の「偽りを飾り小さな失を気にしすぎ権利の機微に疎い」性格を早くから見抜いていたこと(豊は後に夏侯玄とともに誅殺された)、嘏が冀州刺史裴徽・散騎常侍荀甝と親しかったこと、鎮北将軍何曾・司空陳泰・尚書僕射荀顗・後将軍鍾毓ら名臣と交わったことを伝える。子の祗が嗣ぎ、咸熙中の五等爵制で涇原子に改封された。『晋諸公賛』は祗(字子荘)が晋の永嘉中に司空に至ったこと、祗の子宣(字世弘、公正で知られ御史中丞)・暢(字世道、秘書丞、胡地で没し『晋諸公賛』ほか著述を残す)を伝える。
史論
- 評に曰く、かつて文帝・陳王(曹植)が公子の尊貴な身分にありながら広く文才を好み、同好の士が相応じて多くの才人が輩出したが、王粲ら六人(王粲・徐幹・陳琳・阮瑀・應瑒・劉楨)が最も名を知られた。粲は特に常伯(侍中)の官にあって一代の制度を興したが、その徳の器の広さは徐幹の純粋さには及ばない。衛覬もまた博識と典故により時代の制度を助けた。劉劭は学識に通じ文質を兼ね備えた。劉廙は清らかな見識で著され、傅嘏は才能によって栄達した。裴松之は、傅嘏の識量は当代でも高流に属する人物であり、この評が単に「用才達顯」とするのみでは題目としても拙く嘏の美点を十分に表していないと論じる。