若年期と絳邑の死守
- 賈逵、字は梁道。河東襄陵の人。幼くして兵法の遊びを好み、祖父習は「必ず将師となろう」と兵法を数万言授けた。『魏略』は逵の貧しい若年時代(冬に袴なく妻兄の袴を無断で着て去った逸話)を伝える。絳邑長を代行中、郭援の攻撃に堅守し落城寸前まで抵抗、捕らえられても屈せず処刑寸前で祝公道に救われた経緯を『魏略』が詳述する。皮氏を先に確保すべしと予見して援の進軍を遅らせた策も伝わる。『孫資別伝』は資が逵を相府に推薦した文を伝える。
高幹の乱から太祖の信任
- 茂才に挙げられ渑池令となる。高幹の反乱に際し張琰の企てを見せかけで許して城を修め、機を見て一挙に討った。丞相主簿として太祖の馬超征討に従い「使天下二千石悉如賈逵、吾何憂」と評された。屯田都尉との争いで免官となるも太祖は逵を惜しみ主簿に復した。『魏略』は太祖の呉征討を巡る霖雨での諫言事件(教書に反する諫めを逵が引き受け一時投獄された)や、瘿(できもの)の手術を巡る太祖の心遣い、太祖崩御時の喪事取り仕切りにおける逵の毅然とした対応(曹彰への璽綬拒否)を詳しく伝える。
豫州刺史としての治績
- 文帝即位でまず鄴令、魏郡太守、豫州刺史となった。『魏略』は豫州就任時の逵の言動と、六条詔書に基づく厳格な監察方針(安静寛仁より鷹揚督察を重んじる)、就任数か月で前任者の失政を摘発した経緯を伝える。「州本以御史出監諸郡」の理念を説き、帝に「逵真刺史矣」と称され天下の模範とされた。灌漑事業(賈侯渠)や城防を整え、呉との国境防備に尽力した。
夾石の戦いと最期
- 黄初中、呂範を洞浦で破り陽里亭侯・建威将軍。明帝即位で邑を増した。太和二年、大司馬曹休の東関攻めに従軍、休が誘いに乗り深入りして敗れた際、逵は独自の判断で兼道進軍し疑兵を用いて呉軍を退かせ夾石で休を救った。休とはかねて不仲であったが、休の敗戦を救った経緯を『魏略』『魏書』は詳しく伝え、習鑿歯は逵の公義を優先した態度を高く評価している。
- 病篤くなり「呉を平らげられず先帝に見えるのが恨み、喪事は簡素に」と遺言して薨じ、肅侯と諡された。享年五十五。豫州の吏民は逵を追慕し石碑を建て、明帝も逵祠に立ち寄り顕彰の詔を出した。子の充が嗣いだ。
子充、李孚、楊沛
- 充、咸熙中に中護軍。『晋諸公賛』は充が字公閭、甘露中に大将軍長史、高貴郷公の変で司馬昭を守り、晋の元功の臣として太宰・魯公・武公と諡されたことを伝える。
- 『魏略列伝』は賈逵・李孚・楊沛の三人を一巻にまとめており、以下二人の伝を付す。李孚(もと馮姓)は袁尚配下の主簿として鄴包囲下で三騎のみを率い都督を偽称して包囲網を突破し城中と連絡を取った奇策、後に袁譚配下を経て太祖に降人の安定策を献じた経緯が伝わり、晩年司隷校尉に至った。楊沛、字は孔渠。新鄭長として乾椹(干し桑の実)を蓄え太祖の飢えた軍を救い、鄴令として厳格な法治を敷いた(曹洪の賓客を処罰した逸話含む)。清廉を貫き致仕後は家に蓄えがなく、瓜牛廬に住み妻子は困窮したという。
史論
- 評に曰く、漢末以来刺史は諸郡を統べ外に賦政する権を得て、単なる監察に留まらなくなった。太祖の創業から魏の代に至るまで、劉馥・司馬朗・梁習・張既・溫恢・賈逵らはいずれも流誉ある実績の士であり、事の機に精達し威恩をともに著し、万里を粛整して後世に語り継がれた。