出自と挙兵
- 任峻、字は伯達。河南中牟の人。漢末の動乱で関東が震撼した際、中牟県令楊原が官を捨てて逃げようとしたのを、峻は「董卓の乱首は必ず討たれる、誰かが先に唱えれば必ず和する者がある」と説き、関東十余県で兵を持つ者は万人を下らないとして河南尹の事務を代行し諸県に堅守を命じるよう勧めた。原はこれに従い峻を主簿とした。
- 太祖が関東で挙兵し中牟に入った際、峻は独り同郡の張奮と謀り郡を挙げて太祖に帰した。峻はさらに宗族・賓客の家兵数百人を集め、原も太祖に従った。太祖は大いに喜び峻を騎都尉に表し、従妹を娶らせ深く信任した。
- 太祖の征伐のたびに峻は留守を任され軍需を支えた。当時飢饉で軍糧が不足し、羽林監の潁川出身枣祗が屯田の設置を献策すると、太祖は峻を典農中郎将とし、許下で百姓に屯田を募って穀百万斛を得た。郡国に田官が置かれ、数年で各地の倉廩が満ちた。
屯田の功と枣祗
- 官渡の戦いで太祖は峻に軍器・軍糧の輸送を任せた。賊がしばしば糧道を襲うため、千台の車を一部隊とし十道に分けて複陣で守らせ、賊は近づけなかった。軍国の富裕は枣祗に起こり峻によって成った。
- 『魏武故事』所載の太祖の令によれば、枣祗は忠実な人物で早くから義兵に加わり各地を転戦し、呂布の乱で兗州がほぼ叛いた中、范・東阿の二城だけを守り抜いた功があった。太祖が屯田を興す議論の際、当初は牛の使用に応じて穀を納める案が有力だったが、枣祗は豊凶にかかわらず一定額を納める分田の法を強く主張し、荀彧に諮った上で太祖もこれを容れた。この方針で大収穫を得て以後の屯田の基礎となったが、枣祗は早く没し、太祖は封爵が遅れたことを悔い、その子処中への加封を命じた。
- 太祖は峻の功を高く評価し、都亭侯(邑三百戸)に封じ、長水校尉に転じさせた。
人柄と最期
- 峻は寛厚で物事の理をよくわきまえ、進言はしばしば太祖に善しとされた。飢饉の際には朋友の遺児や貧しい親族を助け、信義で称えられた。
- 建安九年(204年)に薨じ、太祖は久しく涙を流した。子の先が嗣いだが先も薨じて子がなく国は除かれた。文帝は功臣を追録し峻に成侯の諡を贈り、峻の中子(次男)覧を関内侯とした。