三國志卷十四 程郭董劉蔣劉傳第十四 劉放
劉放(字は子棄、涿郡の人、?–嘉平二年)は文書起草・機密掌握に長けた側近。孫資と共に中書監・令として長く機密を握り、明帝の後継問題にも深く関与して曹爽らの輔政実現を主導した。文才で知られる一方、その処世は後世に譏りも招いた。
出自と太祖への帰順
- 劉放、字は子棄。涿郡の人。後漢広陽順王の子西郷侯宏の後裔。漁陽の王松に頼っていたが、太祖の冀州平定後、松に「曹公こそ廃興の理を識る主」と説き帰順させた。太祖はこれを喜び、放を参司空軍事とし、後に主簿・記室、贊令などを歴任した。
孫資との共働と中書掌握
- 魏国建国後、太原の孫資と共に秘書郎となった。孫資別伝は資の生い立ち(幼くして両親を失い兄嫂に育てられ、太学で学び荀彧に賞された)と、賈逵の勧めで太祖に応じた経緯を伝える。
- 文帝即位で左右丞、のち放が令、黄初初め秘書を中書と改称し放が監・資が令となり機密を掌握。曹叡の南鄭遠征論には資が武帝(曹操)の故事を引いて「険阻な進軍は費用のみ大きく、諸要害を固めて敵の疲弊を待つべき」と諫め帝は取りやめた。彭綺の反乱への対応も資の分析(鄱陽の義兵は弱く長続きしない)が的中した。
軍事情報の巧みな操作
- 太和末、呉将周賀の遼東招誘に対し資の決断で大破し左郷侯。田豫が鮮卑に包囲された際も資の献策(閻柔の弟閻志による説得)で救われた。放は檄文の起草を得意とし、孫権・諸葛亮の連和の書簡を改竄して離間する策も行い成功させた。景初二年、遼東平定の功で放は方城侯、資は中都侯に進んだ。
明帝の後継問題への関与
- 明帝が病篤くなり燕王宇を大将軍に、夏侯献・曹爽・曹肇・秦朗を輔政としようとした際、放・資は「燕王は自ら不堪と知っている」「曹爽を代わりに」と進言し、司馬懿(太尉)の急召も進言、詔が二転三転する中で最終的に爽と放・資のみが受詔し宇・献・肇・朗は免官となった。『世語』はこの経緯をより詳しく伝え、鶏棲樹の逸話や曹肇兄弟の動揺を記す。裴松之は放・資の対応が忠誠を疑わせるものだったと厳しく評する。
劉放・孫資――斉王即位後
- 斉王即位で放・資は決定に功ありとして増邑、正始年間には左・右光禄大夫、儀同三司にまで進んだ。『孫資別伝』は資が曹爽の専権に対し病と称して引退を願い出た経緯と、帝の慰留の詔を伝える。曹爽誅殺後、資は再び侍中・領中書令に。嘉平二年、放薨じ敬侯と諡され子正が嗣いだ。資も後に驃騎将軍となり三年薨じ貞侯と諡され子宏が嗣いだ。
劉放・孫資――人物評
- 放は才計に優れたが自己修養は資に劣り、両者とも主君に善く順応し得失を露わに言わなかったため世に譏られたが、時に諫諍を助け密かに損益を陳べ、単なる阿諛ではなかったとされる。咸熙中、開建五等の制で放・資はそれぞれ子爵に改封された。放の子孫(正の弟宏、宏の子楚など)、孫資の一族についても文才で知られた者が多い。
史論
- 評に曰く、程昱・郭嘉・董昭・劉曄・蔣済は才策謀略にすぐれた一世の奇士であり、清治徳業では荀攸に及ばぬものの、籌画の才では並ぶ存在であった。劉放は文翰、孫資は勤慎で共に喉舌の任にあり当時権勢を得たが、その雅量は実に及ばず、譏諛の声はその実を超えていたとされる。