三國志卷十五 劉司馬梁張溫賈傳第十五 劉馥

揚州刺史としての立て直し

  • 劉馥、字は元穎。沛国相の人。乱を避けて揚州にあり、建安初、袁術配下の戚寄・秦翊を説いて衆を率い太祖に帰させた。恱びた太祖は司徒掾に辟した。孫策配下の李述が揚州刺史厳象を殺し、梅乾・雷緒・陳蘭らが数万の衆を擁して郡県が荒廃する中、太祖は袁紹への対処に追われており馥に東南の事を任せ揚州刺史に表した。
  • 馥は単騎で合肥の空城に入り州治を建て、梅乾ら南方の勢力を懐柔し帰順させた。数年で教化が行き渡り、民は流民数万を含め帰着した。学校を建て屯田を広げ、芍陂・茹陂・七門・吳塘などの堨(堤堰)を興して稲田を潤し、官民ともに蓄えを得た。城壁を高く築き木石を蓄え、苫(草の敷物)数千万枚と魚膏数千斛を備蓄し戦守に備えた。
  • 建安十三年(208年)卒。同年、孫権が十万の衆で合肥を百余日包囲した際、長雨で城が崩れかけたが、馥が備えた苫で覆い脂を焚いて城外を照らして防備し、賊は撃退された。揚州の士民はその功を董安于の晋陽守備にも勝ると称え、彼の築いた陂塘の利は後々まで用いられた。

子靖と孫弘

  • 子の靖は黄初中、黄門侍郎から廬江太守に遷り「父の州を継ぐ者」と詔された。河内を経て尚書、関内侯、河南尹となった。応璩の書は靖の善政(防犯の柵、種の備蓄、農具の整備、貧民救済など)を称え、趙広漢・張敞・三王の治にも劣らぬとした。
  • 母の喪で去官後、大司農・衛尉となり広陸亭侯(邑三百戸)に進封。儒学振興を説く上疏では「黄初以来太学を立てて二十余年、成る者少ないのは博士の選が軽く諸生が役を避けるため」として二千石以上の子孫を十五歳から太学に入れ、明確な黜陟の制で経明行脩の者を進め荒教廃業の者を退けるべきと論じた。
  • 後に鎮北将軍・仮節都督河北諸軍事に遷り、民夷を分けて守るべしとの考えから辺境を開拓し険要に屯を置き、戾陵渠を広げて薊の南北を灌漑し稲作を興した。嘉平六年(254年)薨じ、征北将軍を追贈され建成郷侯に進封、景侯と諡された。子熙が嗣いだ。
  • 『晋陽秋』によれば劉弘、字は叔和、熙の弟。晋の武帝と同年同郷の縁で顕位に登り、車騎大将軍開府・荊州刺史・仮節都督荊交広州諸軍事・新城郡公となった。江漢にあって専断を許され誠実な統治(簡刑・務農桑)で慕われ、姻戚の夏侯陟より功臣皮初を襄陽太守に推すべきと「十女壻に統治を委ねられぬ」と論じた逸話や、辛冉の従横策を斬って世に称賛された経緯を伝える。