三國志卷十四 程郭董劉蔣劉傳第十四 蔣濟
蔣済(字は子通、楚国平阿の人)は謀略に長けた曹魏の重臣。合肥の籠城戦を偽計で凌ぎ、関羽包囲策や曹丕の征呉における献策で活躍、中書監の専権を批判する上疏でも知られる。曹爽誅殺後まもなく没した。
出自と合肥の守り
- 蔣済、字は子通。楚国平阿の人。郡計吏・州別駕を歴任。建安十三年、孫権が合肥を包囲した際、疫病で援軍が乏しい中、済は偽の書簡で大軍来援を装い城を守り抜いた。太祖の淮南民移住策には「懼れて動揺する」と反対したが用いられず、果たして十余万の民が呉へ逃走、太祖は自らの誤りを認めた。
丞相府での諫言
- 誣告事件で太祖は済を信じ通した。関羽の樊城包囲での遷都論に対し、済と司馬懿は「孫権に江南割譲を約して背後を突かせれば囲みは解ける」と献策し的中、羽は捕えられた。
- 文帝践阼後、東中郎将として留任を望まれ「猛士守四方」の詔を受けた。夏侯尚への「作威作福」の詔の不当性を諫め、帝の意を改めさせた。
曹丕征呉での献策
- 黄初三年、曹仁の濡須攻めに「賊は西岸を占め、洲中への進軍は自ら地獄に陥るようなもの」と諫めたが用いられず仁は敗れた。仁の死後、東中郎将として兵を代領、車駕東征では水路の困難を上奏し『三州論』を献じたが用いられず、のち船団が座礁した際は済の工夫(鑿地・土豚)で全船を淮に収容し文帝の信頼を得た。
明帝期の諫言と中書監批判
- 明帝即位で関内侯。曹休の皖出兵に「深入りは危険」と警告し的中、朱然の淮南進出を予見し急報するも休の敗戦は避けられなかったが官軍の全滅は免れた。中護軍に遷った。
- 中書監・令の専権を批判する長文の上疏(大臣・左右の権力集中の弊害、日々帝の目前にある中書の影響力の危うさを説く)を行い、帝はこれを嘉した。護軍将軍・散騎常侍に進む。『戦略』は遼東への田豫・王雄の遠征に済が「相呑の国でない以上、軽々に伐つべきでない」と諫めた記事を伝える。
景初期の上疏と最期
- 景初中、外征と宮室造営で民が疲弊する中、済は農閑を守り民力を涵養すべきと上疏し(句践・昭王の故事を引く)、帝は「護軍の言なくば聞けなかった」と評した。『漢晋春秋』は公孫淵征討に絡む孫権の動静に関する済の分析を伝える。
- 齊王即位で領軍将軍・昌陵亭侯。『列異伝』は済の子の霊がその妻の夢に現れ泰山の吏となったことを訴え、済が泰山令に内定していた孫阿に転任を依頼し的中したという話を伝える。太尉に遷る。
- 舜を魏の祖とする高堂隆の郊祀議に対し、済は魏の出自が邾氏であることを『曹騰碑』などから論じ反駁したが、結局決着しなかった。裴松之はこの経緯と鄭玄注への済の反論(豺獺の譬え)を詳しく注する。曹爽専政下の日蝕を機に法度の軽々しい改変を諫める上疏も行った。司馬懿の曹爽誅殺に従い都郷侯に進封されたが済は「謀に与らなかった」として固辞、許されなかった。同年薨じ景侯と諡された。『世語』は済が曹爽への書簡で司馬懿の意(免官のみ)を伝え、爽が誅されたことへの悔いから発病死したと伝える。子秀、孫凱と嗣いだ。