出自と節義
- 袁渙、字は曜卿。陳郡扶楽の人。父滂は漢の司徒(清廉で人の短を語らぬ人柄)。渙は清静で行動に礼を重んじ、功曹に挙げられると郡中の奸吏が自ら去った。劉備に茂才に推挙され、後に袁術・呂布のもとを転々とした。呂布に劉備を罵る文書を書くよう強要された際、「徳をもって人を辱めることはあっても罵ることはない」と拒み通した。
太祖への帰服と献策
- 呂布誅殺後、太祖に帰服。陳羣父子らが拝礼する中、渙独り拝礼せず太祖に一目置かれた。太祖が布の軍中の物品を諸官に取らせた際、渙は書物のみを求め、周囲に恥じ入られたという逸話がある。
- 渙は「兵は凶器、已むを得ず用いるもの。道徳をもって導き仁義をもって征し、民を撫して害を除くべき」との建言を太祖に献じ、太祖はこれを深く容れた。沛南部都尉を拝命。
屯田策と施政
- 屯田を始めた際、民が逃亡を嫌う様子を見て「民は土に安んじ、順を楽しみ逆を難ずるもの、強制せず希望者のみ取るべき」と進言、太祖はこれに従い民は喜んだ。梁の相となってからは、鰥寡孤独や孝子貞婦を表彰する施策を行い、外は温和ながら内実は決断力に富んだ統治を行った。属県の令呂岐が師弟を勝手に処刑した事件では、渙は主簿の弾劾を退け「時に応じた権道もある」との教書を発している。
- 諫議大夫・丞相軍祭酒を歴任。賜与は皆散じて蓄財せず、清廉として知られた。
魏国建国後と最期
- 魏国建国後、郎中令・行御史大夫事となり、学問の振興・文徳による遠人懐柔を献策した。劉備死亡の誤報に群臣が祝賀する中、渙は劉備を推挙した旧縁から祝賀しなかった。数年後に官のまま没し、太祖は涙し、太倉と私邸それぞれから穀物を贈った(官の恩と私の親交を分ける意図であったと太祖自ら説明した)。子の侃は清廉な官人として知られ、他の子㝢・奧・準もそれぞれ名を成した(準は経学の著述で知られる)。
- 従弟の袁霸・袁徽らも名を知られ、子孫は代々栄達したと伝わる。