涼州での若き日
- 賈詡、字は文和。武威姑臧の人。漢陽の閻忠に「良平の奇あり」と評された。孝廉に挙げられたが病で官を辞し、帰郷の途上で叛乱氐族に捕らわれた際、太尉段熲の外孫と偽って難を逃れた(実際は縁者ではなかった)逸話がある。
董卓没落後の献策
- 董卓死後、李傕・郭汜らが軍を解散させようとした際、詡は「長安で涼州人皆殺しの噂がある、むしろ兵を率いて長安を攻めるべき」と説き、これが結果的に大きな禍乱を招いたとして裴松之に厳しく批判されている。
- 左馮翊・尚書僕射・尚書などの官を固辞しつつ選挙を司り李傕らに信頼された。李傕が天子を営中に留めようとした際は「義に非ず」と諫め、羌胡の兵を用いた李傕への対処など、朝廷の危機を幾度も救った。
張繡の下での献策と帰順
- 段煨のもとを去り張繡に身を寄せ(煨の猜疑を見抜いた判断)、繡に劉表との連和を勧めた。太祖の撤退時、追撃の可否を二度にわたり的確に予見し(一度目は追撃を止めて大敗を防ぎ、二度目は追撃を勧めて勝利させた)、その理由(曹操自ら殿を務める用兵の巧みさ)を説明し繡を心服させた。
- 官渡で袁紹が張繡を誘った際、詡は使者の前で「兄弟すら容れられぬ者が天下の国士を容れられようか」と一喝し、繡に太祖への帰順を勧めた(天子を奉じる大義・弱者を重んじる利・私怨を捨てる覇道の三点)。太祖は繡を迎えて詡の手を執り「わしが天下に信重されるのは君のおかげだ」と述べ、執金吾・都亭侯・冀州牧を授けた。
赤壁と渭南の献策
- 太祖の江東進撃には慎重論を説いたが用いられず、赤壁で敗れた(裴松之はこの慎重論を当時の情勢に合わないと批判している)。渭南の戦いでは韓遂・馬超の離間策を献じ的中させた。
太子選定と晩年
- 文帝と曹植の後継争いにおいて、文帝の問いに「徳を崇め孝道を尽くすのみ」と答え、太祖の問いには沈黙し「袁紹・劉表父子のことを思っていた」と答えて太子選定を後押しした。自ら太祖の旧臣ではないことを憚り、深謀を隠して私交を絶ち、婚姻も名門を避けたと伝わる。
- 文帝即位後、太尉・魏寿郷侯となったが、孫権は「賈詡が三公とは」と嘲笑したという逸話も付す。呉・蜀征討の可否を問われ「先に徳化を布くべき」と答えたが容れられず、江陵の役で多くの死者を出した。七十七歳で薨去、諡は粛侯。
史論
- 評に曰く、荀彧は清秀で王佐の風があったが、魏に協力し漢の禅譲を早めたとして世に譏られる。裴松之はこれに反論し、彧の本志は乱世を救い漢室を延命させることにあり、最後に節に殉じたことをもって評価すべきだとする。荀攸・賈詡は良平(張良・陳平)に亜ぐ謀臣とされるが、裴松之は列伝の体として二人を同列に一括評価したことに異を唱え、両者の器量は差があると論じている。