三國志卷八 二公孫陶四張傳第八 張魯
張魯(字は公祺、沛国豊の人)は道教教団「五斗米道」の三代目教主。漢中に拠り「鬼道」で民を治め祭酒制度・義舎などを整えて巴・漢の地に約三十年雄拠したが、建安二十年、曹操の征討を受けて降伏し、鎮南将軍・閬中侯に封ぜられた。
五斗米道と漢中支配
- 張魯、字は公祺。沛国豊の人。祖父の張陵は蜀に寓居し鵠鳴山中で道を学び道書を作って民を惑わし、道を受ける者から五斗の米を出させたため世に「米賊」と呼ばれた。陵が死ぬと子の張衡がその道を継ぎ、衡が死ぬと魯がこれを継いだ。益州牧劉焉は魯を督義司馬とし、別部司馬張脩とともに兵を率いて漢中太守蘇固を撃たせたが、魯は脩を襲い殺してその衆を奪った。焉が死に子の劉璋が代わって立つと、魯が従わないことを理由に魯の母と一族を皆殺しにした。魯はついに漢中に拠り、「鬼道」で民を教化し自ら「師君」を号した。道を学ぶ者は初め「鬼卒」と呼ばれ、道を受けて信を得ると「祭酒」を号し、それぞれ部衆を領し多い者は「治頭大祭酒」となった。皆に誠信を欠かさぬこと、病めば自ら過ちを申告することを教え、黄巾とおおよそ似ていた。各地の祭酒は駅站のような「義舎」を設け、そこに義米・義肉を置いて旅人が腹に応じて自由に取れるようにしたが、取り過ぎると鬼道が病を下すとされた。法を犯した者は三度まで宥し、その後に刑を行った。地方官を置かず祭酒によって民を治めたが、巴・漢の民夷はこれを喜んで従い、魯は巴・漢の地に三十年近く雄拠した。
魏への降伏
- 漢末、朝廷には魯を征討する力がなく、そのまま鎮民中郎将・漢寧太守に任じ、貢物を通わせるだけにとどめた。民が地中から玉印を掘り出した際、部下は魯を漢寧王に推そうとしたが、功曹の閻圃は「漢中は富み地の利もあるが、いま王を称するのは禍の先触れとなろう、竇融の故事にならい富貴を保つに越したことはない」と諫め、魯はこれに従った。韓遂・馬超の乱の際には、関西の民のうち子午谷を経て魯のもとへ逃げ込んだ者が数万家に及んだ。
- 建安二十年(215年)、太祖は散関から武都に出て魯を征し陽平関に至った。魯は降ろうとしたが弟の張衛が承知せず、数万の衆を率いて関を固守した。太祖はこれを攻め破って蜀へ入った。この攻城戦では、当初降人の言を信じて陽平は守りやすくないと思い込んでいたが実際は違い、攻めあぐねて撤退を考えるほどであった。夏侯惇・許褚を遣って山上の兵を呼び戻させたところ、夜間に道に迷ってかえって敵陣に踏み込み、それが敵軍の混乱・潰走を招いて図らずも勝利を得たという。太祖自身「用兵三十年、一朝これを人に渡すとは」と漏らしたとも伝わる。別伝では、魯は先に五官掾を降させたが弟の衛はなお険阻に拠って抗戦し、太祖軍は糧が尽きて撤退を考えたが、西曹掾の郭諶が諫めて踏みとどまらせたところ、夜に野の麋の群れが衛の陣営に乱入して大混乱を起こし、たまたま遭遇した魏将高祚らが太鼓を打ち鳴らして大軍の来襲と見せかけたため衛は恐れて降ったという。
- 陽平が陥ちたと聞いた魯は直ちに降ろうとしたが、閻圃は「今、追い詰められて降れば功は軽い、まず杜濩・樸胡を頼って南山の巴中に入り、しかる後に帰順すれば功はより大きい」と諫めたため、魯は南山の巴中に奔った。左右の者は宝貨・倉庫をすべて焼こうとしたが、魯は「もとより国家に帰命するつもりであり、宝貨・倉庫は国家のものである」として封じ保存させて去った。太祖は南鄭に入るとこの処置を大いに嘉し、人を遣って慰諭した。魯は一族を挙げて出て降り、太祖は自ら魯を出迎え鎮南将軍を拝させ賓客の礼で遇し、閬中侯・食邑一万戸に封じ、魯の五子と閻圃らも皆列侯とした。裴松之はこの厚遇を過分と評しつつも、習鑿齒の「魯に王を称えぬよう諫めた閻圃を太祖が封じたのは、賞罰の本を心得たものである」との論を引いて評価している。
- 魯が薨じ、諡を原侯という。子の張富が嗣いだ。
史論
- 評して言う。公孫瓚は孤城を守って坐したまま滅びを待ち、公孫度は残暴で節度を知らず、公孫淵はその業を継いでいっそう凶暴となり、ついに一族を滅ぼすに至った。陶謙は昏乱のうちに憂え死に、張楊は部下に首を取られた――いずれも州郡を擁しながらその行いは匹夫にも及ばず、もとより論ずるに足りない。これに対し張燕・張繡・張魯は群盗の身から身を転じて功臣に列し、危亡を遠ざけて宗祀を保った点で、彼らに勝るものがある。