三國志卷九 諸夏侯曹傳第九 夏侯惇

夏侯惇(字は元讓、沛国譙の人、夏侯嬰の後裔)は曹操挙兵当初からの腹心武将。呂布討伐で片目を失いながらも各地を鎮撫し、曹操の絶大な信任を受けて前将軍・大将軍を歴任した。清廉な人柄で知られ、魏王即位直後に没した。

年表(3件)
  • 建安十二年前後の功により封邑を千八百戸増し二千五百戸となる
  • 建安二十一年孫権征討の帰途、二十六軍を都督し居巣に留められる
  • 建安二十四年太祖が摩陂に軍を置いた際、常に同車させるほど親任された

出自と武勇

  • 夏侯惇、字は元讓。沛国譙の人で、夏侯嬰の後裔。十四歳で師に学び、師を辱めた者を殺し、烈しい気性で知られた。
  • 太祖挙兵の初め、裨将として従軍。太祖が奮武将軍となると司馬に任じられ白馬に別屯、のち折衝校尉・東郡太守を兼ねた。太祖が陶謙を征討した際は濮陽の守備を任された。
  • 張邈が叛いて呂布を迎え入れた際、太祖の家族がいた鄄城へ軽車で急行し呂布軍と交戦。布は退いて濮陽に入り、惇の軍の輜重を襲奪した。さらに偽って降る将を送り込み惇を捕らえて財貨を要求し、軍中が動揺した。部将の韓浩は兵を惇の陣門に集めて諸将を動かさせず、人質を取った者たちを叱責し、太祖の裁可を待たず一斉に討たせて斬った。太祖はこれを聞き、韓浩に「この対応は万世の法とすべきだ」と称え、以後人質を取る者は人質を顧みず討つとの令を定めた。以後、人質による脅迫は絶えたという。

治績と軍功

  • 太祖が徐州から戻った後、惇は呂布討伐に従軍し流れ矢を受けて左目を失った(軍中では「盲夏侯」と呼ばれ、惇は鏡を見るたびに怒って地に叩きつけたという)。
  • 陳留・済陰太守を兼任し建武将軍・高安郷侯となる。旱魃と蝗害の際には太寿水を堰き止めて陂を築き、自ら土を負って将士に稲作を勧め、民はその利益を受けた。のち河南尹を兼任し、太祖の河北平定では大将軍の後拠を務めた。鄴陥落後は伏波将軍に遷り、河南尹はそのまま兼ね、便宜従事の権を与えられ制度に拘束されなかった。
  • 建安十二年、前後の功を録して封邑を千八百戸増し合わせて二千五百戸とした。二十一年、孫権征討からの帰途、惇に二十六軍を都督させ居巣に留めた。太祖は魏絳の故事を引いて伎楽名倡を賜った。二十四年、太祖が摩陂に軍を置いた際は惇を常に同車させるほど親任し、諸将の及ぶところではなかった。前将軍を拝命した際、他の将は皆魏の官号を受けたが惇独り漢の官のままであったため、臣たる礼にそぐわぬと上疏したが、太祖の説得で前将軍を受けた。その後、諸軍を督して寿春に還り召陵に転屯。文帝の魏王即位とともに大将軍を拝命したが、数ヶ月で薨じた。

人柄と一族

  • 惇は軍旅にあっても師について学問を続けた。清廉倹約で余財は分け与え、不足は官に頼らず自らの産業を営まなかった。諡は忠侯。子の夏侯充が嗣ぐ。
  • 文帝は惇の功を追思し、子孫すべてを侯にしようと惇の邑千戸を分け、惇の七子二孫の爵をすべて関内侯とした。弟の夏侯廉とその子夏侯楙も列侯に封ぜられ、太祖は娘(清河公主)を楙に嫁がせた。楙は侍中・尚書・安西鎮東将軍を歴任し節を仮された。武略に乏しく蓄財を好み、公主との不和や弟たちによる誣告事件で危うく処刑されかけたが、段黙の弁護で難を逃れている。
  • 充が薨じ子の廙が嗣ぎ、廙が薨じ子の劭が嗣いだ。晋の泰始二年、惇の孫にあたる高安郷侯夏侯佐が卒し嗣が絶えたため、武帝は惇の功を惜しんで劭に爵を継がせる詔を下した。

韓浩・史渙

  • 韓浩は河内の人。沛国の史渙とともに忠勇で知られた。浩は中護軍、渙は中領軍に至り、ともに禁兵を掌り列侯に封ぜられた。浩は元来県の防衛のために徒衆を集めた郷士で、夏侯惇に見出されて信任を得、柳城遠征の可否をめぐる議論でも太祖の決断を支えた。太祖の漢中平定後もその智略を惜しまれ常に側に置かれた。子はなく養子の栄が嗣いだ。
  • 史渙は若くして任侠を好み雄気があり、太祖挙兵の初めから客将として従い中軍校尉・中領軍を歴任、諸将を監督する任にあったが建安十四年に薨じた。子の静が嗣いだ。