三國志卷九 諸夏侯曹傳第九 夏侯淵

夏侯淵(字は妙才、夏侯惇の族弟、?–建安二十四年)は曹操配下の武将で、機動力に富んだ用兵で知られ「三日で五百里、六日で千里」と評された。関中・隴右を次々に平定し征西将軍にまで進んだが、陽平関の戦いで劉備軍に襲われ戦死した。

年表(6件)

軍歴の始まりと官渡

  • 夏侯淵、字は妙才。惇の族弟。かつて太祖に代わって罪を引き受け、太祖の助命で難を逃れた恩がある。太祖挙兵に別部司馬・騎都尉として従い、陳留・潁川太守を歴任。官渡の戦いでは督軍校尉として兖・豫・徐州の軍糧輸送を担い、乏しい軍食を支え続けて士気を回復させた。
  • 昌豨の反乱では于禁と共に討伐し十余屯を降した。典軍校尉となり、迅速な用兵ぶりから「典軍校尉夏侯淵、三日で五百里、六日で千里を進む」と軍中で評された。済南・楽安の黄巾徐和・司馬俱らを撃破し斬り、諸県を平定して糧穀を軍に供した。

関中の平定

  • 建安十四年、行領軍となり廬江の叛者雷緒を討ち、征西護軍として太原の賊を攻め二十余屯を落とし賊帥商曜を斬った。韓遂らとの渭南の戦いに従軍し、隃麋・汧氐も平定、安定で楊秋を降した。
  • 十七年、護軍将軍として朱霊・路招らを督し長安に屯し、南山の賊劉雄を破り、鄠で梁興を斬って博昌亭侯に封ぜられた。馬超が涼州刺史韋康を冀で囲んだ際は救援が間に合わず敗れ、汧氐の反乱で軍を引いた。
  • 十九年、趙衢・尹奉らの謀により馬超の妻子が皆殺しにされ、超は漢中へ逃れ再び祁山を囲んだ。姜叙らの急な求援に対し淵は「太祖の指示を待てば四千里の往復で間に合わぬ」として即断で出兵、張郃を先鋒として陳倉の間道から進み、韓遂軍を破って諸県を降した。

隴右・漢中の平定

  • 韓遂を略陽まで追い、長離の羌を撃つ策を用いて韓遂軍を大破し興国を包囲、氐王千万は馬超のもとへ逃亡した。高平の屠各も撃破し節を仮された。
  • 枹罕の宋建(自ら「河首平漢王」を称した)を月余りで攻略し斬り、張郃らに河関・小湟中を平定させ河西の羌を悉く降し隴右を平定。太祖は「宋建の乱三十余年、淵一挙にこれを滅ぼした」と称え、二十一年に八百戸へ加増した。武都の氐羌下辯を撃ち氐穀十余万斛を得た。太祖の張魯征討にも従い、漢中平定後は行都護将軍として張郃・徐晃らに巴郡を平定させ、征西将軍を拝命した。

陽平関の戦いと戦死

  • 二十三年、劉備が陽平関に軍を進め、淵は諸将を率いて連年これを拒んだ。二十四年正月、劉備が夜に鹿角を焼き、張郃に東の囲みを、淵自ら南の囲みを守らせたが、郃が劉備の攻撃に苦戦したため淵は兵の半分を割いて援護に向かったところを劉備軍に襲われ、戦死した。諡は愍侯。
  • 太祖は生前、淵が勇に頼りすぎることをしばしば戒め「将たる者は臆病な時があってよく、勇だけを恃みにすれば一介の匹夫にすぎない」と述べていた。

一族

  • 淵の妻は太祖の妻の妹。長子の衡は太祖の弟海陽哀侯の娘を娶り、爵を継いで安寧亭侯に転封。黄初中に次子の霸、太和中には霸の弟四人も関内侯を賜った。
  • 霸は正始中に討蜀護軍右将軍・博昌亭侯となり曹爽に厚遇されたが、爽誅殺の報を聞いて自ら疑い蜀へ亡命した。淵の旧勲により子は赦されて楽浪郡に徙された。霸は蜀への恨みから討伐を志していたが、子午の役で危うい戦いを経て後に征蜀護軍となり、司馬懿による曹爽誅殺と征西将軍夏侯玄の召還・郭淮との不和を機に窮して蜀へ亡命、道に迷い糧を絶って苦難の末に蜀に迎えられた。霸の従妹はかつて張飛に娶られ、その娘が劉禅の皇后となっていた縁で、劉禅は霸を厚遇したという。
  • 霸の弟威は兖州・荊州刺史を歴任し一族は栄達した(子の駿は并州刺史、荘は淮南太守、荘の子湛は文才で知られ南陽相・散騎常侍となり晋の景陽皇后の姉婿にあたる)。威の弟惠は楽安太守となり若くして才学で称された。惠の弟和は河南尹・太常を歴任した。淵の第三子称・第五子栄はいずれも武勇と才知で知られたが早世した。衡の子績は虎賁中郎将となり、績の子褒が嗣いだ。