三國志卷七 呂布臧洪傳第七 臧洪

臧洪

  • 臧洪、字は子源、広陵射陽の人。父の臧旻は匈奴中郎将・中山太守・太原太守を歴任した能吏であった(袁逢が西域の事情を尋ねた際、旻が三十六国から百余国への変遷まで詳しく答え「班固の西域伝に勝る」と称賛された逸話が伝わる)。洪は魁偉な体躯で孝廉に挙げられ郎となり、県長を経て太守張超の功曹となった。
  • 董卓が帝を殺し社稷を危うくすると、洪は超に義兵を勧め、超は兄張邈と諮り酸棗で会盟、諸州郡が譲り合う中で洪が壇に上り歃血して誓文を読み上げた。その辞気は聴く者を奮い立たせたという(この会盟に劉表が加わったとする『魏氏春秋』の記述を裴松之は事実誤認と指摘する)。しかし諸軍は進撃せぬまま糧が尽き散った。
  • 超は洪を大司馬劉虞のもとへ遣わしたが公孫瓚の乱で使命を果たせず、袁紹に重んじられ、青州刺史焦和の死後は紹の命で青州を治め二年で群盗を鎮めた功により東郡太守に転じた。

張超救援を巡る紹との決裂

  • 太祖が雍丘の張超を攻めた際、超は「臧洪だけが必ず助けに来る」と信じたが、紹の配下となっていた洪は紹に阻まれ間に合わず、超は一族もろとも滅ぼされた。洪はこれを怨み紹との関係を絶ち、紹が洪の東郡を攻囲すると、紹配下の陳琳が禍福を説く書を送ったが、洪は長文の返書で、旧友としての情誼と君臣・忠孝の道の間で苦悩しつつも、既に「収涙告絶」した以上は節を曲げないと述べ、張景明・呂布・劉子璜ら紹に用いられながら報われなかった者たちの例を引いて紹の非情を批判し、黒山の張燕らとの連携も辞さぬ決意を示した。

籠城と最期

  • 紹は洪に降意なしと知り攻囲を強め、城中の糧が尽きると洪は「袁氏は無道で、我が郡将を救わなかった。義において死なざるを得ないが、諸君に累を及ぼす理由はない、城が落ちる前に妻子を連れて出よ」と諭したが、吏士は皆涙して離れなかった。鼠や獣の筋角まで食い尽くし、主簿が差し出した米三斗の粥も皆で分かち合い、自らの愛妾を殺して将士に食べさせたため、涙を流さぬ者はなかった。男女七八千人が相枕して死んでも離反する者はなかったという。
  • 城が陥ちると紹は洪を生け捕り、諸将を集めた席で「臧洪、なぜ私に背いたのか、今日は服したか」と問うたが、洪は「袁氏は漢に厚恩を受けながら王室を支えず非望を企てた、私は張陳留を兄と仰いだ以上あなたの府君(張超)とも兄弟のはず、なぜそれを見殺しにしたのか」と怒りをぶつけ服従を拒み、紹は結局洪を殺した。同郡の陳容も洪を弁護して紹に殺され、その場に居合わせた者は皆「なぜ一日に二人の烈士を殺すのか」と嘆いたという。洪が救援に遣わした二人の司馬も、戻った時には城が落ちていたため敵中に赴いて死んだ。

作者評価

  • 評に曰く、呂布は虎のごとき勇を持ちながら優れた智略を欠き、軽薄で節操なく利のみを追った。古来これほど滅びを免れなかった者はいない。かつて光武帝が龐萌を見誤り、太祖もまた張邈に欺かれたように、人を知ることの難しさは帝者にも及ぶという。陳登・臧洪はいずれも雄々しい気概と壮烈な節義を備えたが、登は功業半ばで早世し、洪は兵弱くして志を遂げられなかった、惜しむべきことである。