三國志卷七 呂布臧洪傳第七 呂布

五原郡九原の人、字は奉先(?–198年)。驍勇で知られ「飛将」と称されたが、丁原・董卓と主君を次々に裏切り、諸勢力を転々とした末に徐州を奪って自立した。最終的に配下の裏切りにより曹操に捕らえられ、劉備の一言で助命を退けられて処刑された。武勇に優れる一方、節操のなさによって身を滅ぼした典型として評される。

年表(3件)
  • 興平元年張邈・陳宮に迎えられ兖州牧に立てられるも、二年を経て太祖に敗れ劉備を頼る
  • 建安三年太祖に攻められ配下の裏切りで捕らえられ、白門楼で縊り殺される
  • 建安三年陳宮も生け捕られ、老母の助命を条件に従容として刑に赴く

出自と丁原殺害

  • 呂布、字は奉先、五原郡九原の人。驍勇をもって并州に仕えた。刺史丁原が騎都尉として河内に屯した際、布を主簿とし厚く用いた。霊帝崩御後、原は兵を率いて洛陽に赴いた(原、字建陽、寒門の出で粗略ながら武勇に優れ騎射に長じたと伝わる)。何進と共に宦官誅殺を謀り執金吾を拝したが、進が敗れると董卓が入京し原を殺してその兵を併せようとし、布を誘って原を殺させた。布は原の首を卓に献じ、卓は布を騎都尉として深く信任し父子の誓いを結んだ。

董卓誅殺と諸国流浪

  • 布は弓馬に優れ膂力人に勝り「飛将」と号された。中郎将・都亭侯に進んだが、卓は布を側に置きつつも猜疑深く、些細なことで布に手戟を投げつけたこともあった(布は身をかわし卓の怒りは解けたが、以後密かに卓を怨んだ)。卓の侍婢と私通したことも発覚を恐れる種となった。
  • 司徒王允は布を厚遇し、卓の暴虐を訴える布に内応を求めた。布は「父子の関係をどうするのか」と躊躇したが、允に「君はもと呂姓、骨肉ではない」と説かれ、自ら卓を刺殺した。允は布を奮武将軍・仮節・儀比三司・温侯に取り立て共に朝政を執った。しかし布は涼州人の恨みを買い、李傕らが結んで長安を攻めるに至った。布は防ぎきれず、卓の死後六旬で自らも敗走した(裴松之は日付の照合から「六旬に及ばない」と注記する)。数百騎で武関を出て袁術を頼ろうとした。

袁術・袁紹のもとを転々

  • 布は卓誅殺を術への恩返しと考えたが、術はその変わり身を嫌い拒絶した。北の袁紹を頼り、共に常山の張燕を攻めて破ったが(この時布の愛馬赤兎が「人中に呂布あり、馬中に赤兎あり」と評された)、兵の増員や略奪を求めて紹に疎まれ、紹が刺客を送ったが失敗、布は河内へ逃れた(紹配下を軽んじた布の振る舞いと、紹が謀って殺そうとした顛末が『英雄記』に詳しい)。張楊のもとに身を寄せた際も、李傕・郭汜の懸賞に張楊配下が動揺したが、布は楊を説き外面は懸賞に応じる姿勢を示しつつ内実は保護させた。

張邈

  • 張邈、字は孟卓、東平壽張の人。若くして侠を好み財を惜しまず窮する者を救い多くの士が帰服した。太祖・袁紹とも親しく、公府に辟され陳留太守となった。董卓の乱で太祖と共に義兵を挙げ、汴水の戦いでは衞茲の兵を太祖に随わせた。盟主袁紹の驕慢を諫めて紹に殺されかけたが太祖に庇われた(太祖征陶謙の際「もし還らずば孟卓を頼れ」と家に遺言したほどの親密さであった)。

張邈・陳宮の離反と呂布の兖州奪取

  • 呂布が袁紹のもとを去り張楊に投じた際、邈と別れを惜しんだことで紹の恨みを買い、邈は太祖に討たれることを恐れて不安を抱いた。興平元年、太祖の再度の陶謙征討中、邈の弟張超・太祖配下の陳宮・従事中郎許汜・王楷が謀反を企て、宮は邈に呂布を迎えて兖州を共に治めるよう説いた。邈はこれに応じ、宮は太祖の兵を率いていた東郡から布を迎えて兖州牧に立て濮陽に拠った。鄄城・東阿・范を除く郡県が呼応したが、太祖は軍を返して濮陽で激戦、旱魃と蝗害で兵糧が乏しい中百余日相持し、二年を経てついに諸城を回復し鉅野で布を破った。布は東の劉備を頼った(布は備を「弟」と呼び親しんだが、備は内心その言動の一貫しなさを疑っていたという)。邈は張超と共に雍丘に籠ったが太祖に屠され超も一族もろとも殺された。邈自身は袁術に救援を求める途上、自らの兵に殺された(『献帝春秋』は邈が術の称帝を諫めた書を伝えるが、本伝とは食い違いがあるという)。

下邳占拠と徐州経営

  • 備が袁術を撃つ隙に布は下邳を奪い、備は布の下に帰した。布は備を小沛に置き自ら徐州刺史を称した。布の徐州入りに対し袁術は当初、卓討伐・兖州平定・劉備撃破の三つの功に感謝し米二十万斛の援助を約す書を送り布を喜ばせた(布配下丹楊兵の内応で劉備の張飛(益徳)を破り妻子・軍資を得た経緯、部将郝萌の謀反とその鎮圧の経緯なども詳しく伝わる)。術が備を攻めた際、布はあえて備を救援し「解闘を好む」として矛で戟の小枝を射抜く芸を見せ両軍を退かせた(轅門射戟の逸話)。

袁術との破談と曹操への接近

  • 術は子のために布の娘を求め婚姻で結ぼうとしたが、沛相陳珪が徐揚合従の脅威を説いて阻止し、布は嫁がせかけた娘を追い返し使者韓胤を械送して斬った。この頃布は左将軍を拝命し、太祖とも詔書購捕への協力や印綬の贈答を通じて誼を通じた。陳珪の子陳登が太祖の使者として赴き布の勇にして無謀な性質を説き、太祖は珪の秩を中二千石に進め登を広陵太守に任じて内応を託した。
  • 布は徐州牧を求めたが叶わず陳珪父子を恨んだが、登の「虎を養うように、飽かせず用いる」との弁明で怒りを解いた。術は韓暹・楊奉と結んで張勳に布を攻めさせたが、布は陳珪の策で暹・奉を離間し味方に引き入れ勳を大破した。以後布は暹・奉と共に寿春に進撃し略奪を重ねたが、東海の蕭建には共存を呼びかける書を送りつつ、臧霸に襲われた建の資産を狙って攻めたが落とせず退いた。

滅亡

  • 建安三年、布は再び術に通じ高順に劉備を沛で攻めさせ破った。太祖の援軍夏侯惇も高順に敗れたが、太祖自ら出征し布の城を包囲、降伏を勧めたが陳宮らが罪の深さを恐れ阻んだ。太祖の攻囲が急を告げると、布は妻の諫言(陳宮・高順の不和を案じる言葉)や陳宮の献策(内外呼応策)に揺れて決断できず、ついに配下の侯成・宋憲・魏続が陳宮を縛って降った。布は白門楼に追い詰められ降伏、生け捕られた布は「明公が歩兵を率い、私に騎兵を率いさせれば天下平定は容易い」と助命を乞うたが、劉備の「丁原・董卓の例をお忘れか」との一言で太祖の心は決まり、布は縊り殺され陳宮・高順と共に梟首されたのち葬られた。高順は清廉で酒も贈答も受けず精強な「陥陣営」を率いたが、布の疑いを招き郝萌の乱後に兵を魏続に奪われながらも終始恨みを見せなかったという。

陳宮

  • 太祖が宮を捕らえた際、老母と娘の助命を問うと、宮は「孝を以て天下を治める者は人の親を絶たず、仁を施す者は人の祀を絶たない、老母の存否は公にある」と答えた。太祖はその母を養い娘を嫁がせた。宮は太祖に「今日どうする」と問われ「臣として不忠、子として不孝、死は分に過ぎない」と答え、刑に赴く際は振り返らなかったという。太祖はその死後、宮の家族を初め以上に厚遇した。

陳登

  • 陳登、字は元龍、広陵で威名があり呂布討伐に功があって伏波将軍に加えられたが三十九歳で没した。許汜が劉備・劉表の前で登を「湖海の士、豪気抜けず」と評した際、備は「国士の名を持ちながら乱世に家の田舎のことばかり語る者こそ登の忌むところ」と反論し、表を大いに笑わせたという逸話が伝わる。登は若くして孝廉に挙げられ東陽長・典農校尉として民政に功を挙げ、広陵太守として海賊薛州の一党を帰順させ、太祖の下邳攻めでは先鋒を務め、匡琦城で孫策の大軍を策略で破り、東城太守に転じても民に慕われた。太祖は後年「もっと早く元龍の計を用いていれば」と孫権の台頭を悔やんだという。