荊州平定
- 劉表、字は景升、山陽高平の人。若くして名を知られ「八俊」の一人に数えられた。身長八尺余、大将軍掾から北軍中候を経て、霊帝崩御後に王叡に代わり荊州刺史となった。山東の兵乱の中、単騎で宜城に入り蒯良・蒯越・蔡瑁と謀り、宗賊の頭目五十五人を誘殺してその衆を収め、江夏の張虎・陳生らも降して江南を平定した。
勢力拡大と曹操への対応
- 袁術が孫堅と結んで表の州を奪おうとした際、堅が流矢で戦死し術の企ては潰えた。李傕・郭汜の政権下では鎮南将軍・荊州牧・成武侯に叙せられ、天子が許に都しても表面上貢献しつつ北の袁紹と結んだ(治中鄧羲の諫めにも応じなかった)。張済が荊州に侵入し穣城攻めで戦死した際は「窮して来た者に無礼があったまでで賀すべきではない」と述べその衆を懐柔した。長沙太守張羨の反乱を数年かけて平定し、その子懌の再叛も鎮圧して零陵・桂陽を南に収め漢水流域を北に領し、方数千里・帯甲十余万に達した(学官を開き綦毋闓・宋忠らに五経章句を撰ばせた)。
- 太祖と紹が官渡で対峙した際、表は紹に援助を約しながら実行せず太祖にも与せず中立を保った。従事中郎韓嵩・別駕劉先は去就を明らかにするよう勧め、大将蒯越も曹公への帰順を勧めたため、表は韓嵩を遣って太祖の実情を探らせたが、嵩が太祖の威徳を称え子を人質に出すよう勧めて帰ると、表は嵩が太祖に寝返ったと疑い殺そうとした。嵩は「将軍が嵩に背いたのだ、嵩は将軍に背いていない」と動じず、妻蔡氏の諫めで囚われるにとどまった(裴松之は表を外見は儒雅だが内心疑い深い人物と評す)。劉備が表を頼った際は厚遇したが用いず、太祖の柳城遠征を突く進言も容れなかった。建安十三年、太祖の親征を前に表は病死した。
少子 琮――後継争いと降伏
- 表は妻ともども末子琮を偏愛し後継にしようとし、蔡瑁・張允がその党となって長子琦を江夏太守に追いやり、琦・琮は仇敵の間柄となった(表の病床に琦が見舞おうとしても瑁・允に阻まれ会えなかったという)。蒯越・韓嵩・傅巽らは琮に太祖への帰順を説き、傅巽は「劉備でさえ将軍は及ばないのに、その劉備すら曹公には敵わない」と論じて説得、太祖軍が襄陽に至ると琮は州を挙げて降り、劉備は夏口へ逃れた(王威の奇襲策も容れられなかった。荊州の童謡が劉表の死と後任刺史李立の名を予言していたという逸話も伝わる)。
少子 琮――曹操の待遇と側近たち
- 太祖は琮を青州刺史・列侯に封じ、蒯越ら十五人を侯とした。蒯越は光禄勲となり(何進への宦官誅殺の献策、荊州平定への貢献、太祖の「蒯異度を得たのが喜ばしい」との評、臨終に太祖へ門戸を託した逸話が伝わる)、韓嵩は大鴻臚となり(太祖の「劉牧はどう天を祀ったか」との問いに婉曲に答えた逸話が伝わる)、劉先は尚書令となった(太祖の「群凶とは誰か」との問いに「目に入る者すべてがそうだ」と答えた逸話、その甥周不疑の異才と太祖の子曹沖の死後に忌まれ刺客に殺された悲話も付記される)。表の死後八十余年、西晋太康年間にその墓が暴かれた際、表夫妻の遺体は生けるがごとく芳香を放っていたと伝わる。
史論
- 評に曰く、董卓は書契以来例のない凶暴さで、袁術は奢淫のうちに自ら滅びを招いた。裴松之はこれに対し、桀紂や秦莽ですら長年を経て悪が露わになったのに対し董卓はわずか三年足らずで天下に禍毒を流したその残忍さは「書契未有」の評に値するが「賊忍」「不仁」の語が重複していると指摘し、また功なくして僭号した袁術の罪はこの評よりも重いはずだとする。袁紹・劉表はいずれも威容と器量で当世に知られたが、外は寛容ながら内には猜疑深く、謀を好みながら決断力に欠け、才ある者を用いず善言を容れず、嫡子を廃して庶子を立てたために後嗣が滅び社稷が傾いた。これは不運ではない。項羽が范増の謀に背いて覇業を失ったように、紹が田豐を殺したことはそれ以上に手厳しいと評される。