三國志卷八 二公孫陶四張傳第八 公孫瓚

公孫瓚(字は伯珪、遼西郡令支の人)は辺境防衛の武功で頭角を現し幽州に割拠した武将。幽州牧劉虞と対立してこれを殺し州を掌握したが、袁紹との抗争に敗れ易京に籠城の末、妻子を殺し自ら命を絶った。

年表(2件)
  • 光和年間幽州突騎を率い涼州へ向かう途中、張純の乱鎮圧に功をあげる
  • 建安四年袁紹軍に易京を包囲され、妻子を殺し自ら命を絶った

出自と初期の官歴

  • 公孫瓚、字は伯珪。遼西郡令支の人。郡の門下書佐となる。姿かたちに優れ声も大きく、太守はその器量を認めて娘を娶らせた。
  • 孝廉に挙げられて郎となり、遼東属国長史に任じられた。数十騎で塞外を巡回中、鮮卑数百騎に遭遇したときは、空亭に退いて従騎に決死を約し、自ら両刃の矛を持って敵中に馳せ出て数十人を殺傷、従騎の半数を失いながらも囲みを脱した。以後鮮卑は懲りて塞内に入らなくなった。涿県令に遷る。
  • 光和年間、涼州で賊が起こると幽州の突騎三千を発し、瓚は仮の都督行事の資格でこれを率いた。軍が薊に至ったとき、漁陽の張純が遼西烏丸の丘力居らを誘って叛き、自ら将軍を号して薊中を劫略した。右北平・遼西属国の諸城を攻め荒らしたが、瓚はこれを追討して功を挙げ騎都尉に遷る。属国烏丸の貪至王が種人を率いて瓚に降ると、中郎将に遷り都亭侯に封ぜられ、属国に進駐して胡と五、六年攻防を続けた。丘力居らは青・徐・幽・冀の四州を侵し、瓚はこれを防ぎきれなかった。

劉虞――出自と幽州統治

  • 朝議は、宗正の劉虞(字は伯安)がかつて幽州刺史として恩信篤く戎狄にも慕われていたことから、幽州牧に任じて鎮撫させることとした。
  • 虞は幽州に着任すると胡中に使者を送って利害を説き、張純の首を送るよう求めた。丘力居らは虞の到着を喜び、それぞれ使者を送って帰順した。功を争う公孫瓚は密かに人を使って胡の使者を邀撃させ、虞は屯兵の大半を罷免して瓚には歩騎一万のみを率いて右北平に駐屯させた。張純は妻子を捨てて鮮卑に逃げ込んだが、客の王政に殺されその首は虞に送られ、政は列侯に封ぜられた。虞はこの功により太尉を拝し襄賁侯に封ぜられた(ただし虞は太尉位を辞し、趙謨・劉焉・黄琬・羊続を推薦した)。董卓が洛陽に至ると虞は大司馬に遷り、瓚は奮武将軍となり薊侯に封ぜられた。

劉虞との対立

  • 関東の義兵が挙がると、董卓は帝を西へ拉致し、虞を太傅に徴したが道が塞がれて至らなかった。袁紹・韓馥は少帝が奸臣に制せられていることを理由に、名望ある宗室の劉虞を帝に推そうと図ったが、虞は終始これを固辞し、尚書事の代行や承制封拝も受けなかった。それでも紹らとの連携は保った。
  • 当時、四星が箕・尾の間に会し、済陰の男が「虞為天子」と刻んだ玉印を得たとされ、また両日が代郡に並び現れたなど、虞を天子に擬する讖緯が広まった。紹も密かに虞に意を伝えたが、虞は「国に正統あり」として固辞し、匈奴への出奔まで考えたため紹らも諦めた。虞はその後いっそう恭謹に職務を奉じ、諸外国からの朝貢の取り次ぎも欠かさなかった。
  • 虞の子・劉和は侍中として長安にあったが、天子は東帰を望み和に董卓のもとを脱出させ武関を経て虞のもとへ行かせ、迎えの兵を求めさせた。和は道中で袁術に説き聞かせたが、術は虞の援兵を自らのために利用しようと和を留め、兵が揃えば共に西進すると偽って虞に書を送らせた。虞は数千騎を和のもとへ遣わした。瓚は術に異心があることを見抜き出兵に反対したが虞は聞かず、瓚は術の怨みを恐れて従弟の公孫越に千騎を率いさせ術と結ばせる一方、密かに術に和を捕らえその兵を奪わせた。これにより虞・瓚の間の溝はいっそう深まった。和は後に北へ逃れたが再び袁紹に留められた。

紹との抗争と虞殺害

  • このころ袁術は孫堅を陽城に屯させ董卓に対抗させたが、袁紹は周昂にその地を奪わせた。術は公孫越を堅とともに昂を攻めさせたが敗れ、越は流れ矢に当たって死んだ。瓚は「弟の死は紹に起因する」と怒り、磐河に出兵して報復を図った。紹は恐れて勃海太守の印綬を瓚の従弟・公孫範に授け結びつきを図ったが、範はかえってその兵を挙げて瓚を助け、青・徐の黄巾を破って勢いを増し、界橋に進軍した。
  • 瓚は袁紹の罪状十ヶ条を挙げて上表した。すなわち、①何進政変の際に丁原の孟津焼き討ちと董卓招致を防げなかったこと、②董卓が洛陽に入り帝が人質となった際に節伝を捨てて逃亡し不忠を働いたこと、③勃海太守として密かに兵を集めながら父兄に告げず太傅一族・太僕母子を死なせたこと、④挙兵後二年、国難を顧みず私腹を肥やし富室から強制的に金を取り立てたこと、⑤韓馥の地位を奪い偽の詔で印璽を刻んだこと、⑥崔巨業に星占いをさせ財貨で郡県を攻略させたこと、⑦功臣の劉勲を讒言で殺したこと、⑧高焉・姚貢に法外な金を要求し二人を死に至らしめたこと、⑨庶出の身でありながら家督を奪い高位についたこと、⑩孫堅の功を奪い周昂にその位を盗ませ堅の兵糧を断ったこと、である。
  • 瓚は挙兵して紹と戦い、緒戦では紹軍を破って嚴綱を冀州、田楷を青州、単経を兗州の刺史として置いた。しかし紹軍が広川で麴義を先鋒に立てて反撃すると綱は生け捕られ、瓚軍は勃海に敗走、範とともに薊に戻り、大城の東南に小城を築いて虞と近接し互いに疑心を募らせるに至った。
  • 虞は瓚の変を恐れて先に兵を挙げ瓚を襲ったが敗れ居庸に奔った。瓚は居庸を攻め落とし虞を生け捕って薊に連れ帰った。折しも董卓が死に、天子の使者段訓が虞の封邑を増やし六州の督とし、瓚は前将軍に遷り易侯に封ぜられた。瓚は虞が尊号を称そうとしたと誣告し、段訓を脅して虞を斬らせた。
  • 瓚は虞を市中に晒し「もし天子たるべき者なら天は雨を降らせて救うだろう」と祝したが、その日は炎暑で終日雨が降らず、虞は殺された。虞の旧臣・孫瑾、掾の張逸・張瓚らは瓚を罵り倒したのち殉死した。瓚は段訓を幽州刺史に推した。以後瓚は驕り高ぶり、人の過ちは忘れず善行は忘れる性となり、多くを害するようになった。

衰亡

  • 虞の旧部・鮮于輔、斉周、鮮于銀らは州兵を率いて瓚への報復を図り、恩信ある燕国の閻柔を烏丸司馬に推した。柔は烏丸・鮮卑を招き胡漢数万を得て、瓚配下の漁陽太守鄒丹と潞北で戦いこれを大破し丹を斬った。袁紹もまた麴義と虞の子・劉和に兵を与えて輔と合流させ瓚を撃たせ、瓚は連敗して易京に退いて固守した。童謡に「燕南垂、趙北際、中央不合大如礪、惟有此中可避世」とあり、瓚は易の地がこれに当たるとして城を固めた。
  • 瓚は黄巾を破った威勢に乗り、三州の刺史を私に置いて袁氏の打倒を図ったことがかえって敗因となった。塹壕を十重に巡らせ、その中に高さ五、六丈の楼を構え、中央の京観はことに高さ十丈で自ら居し、穀三百万斛を蓄えた。瓚は「今より天下の事は兵糧を蓄え持久すれば足りる、百の楼を攻め落とせるものはない」と言い、紹軍を疲弊させようとしたが、紹の攻撃は年を越しても抜けなかった。
  • 袁紹は瓚に書を送り、旧盟を破って公孫越を死なせた怨みの深さ、度重なる裏切り、部下を殺して民心を失ったこと、それによって烏丸・鮮卑まで魏(紹)側に靡いたことなどを述べ、和解して旧好を修めるよう説いた。瓚は答えず、防備を増強し、関靖に「今、天下は虎の如く争っているが、我が城下に長く踏みとどまれる者などいない。袁紹とてどうしようもあるまい」と語った。
  • 建安四年、紹は総力を挙げて易京を包囲した。瓚は子を黒山の賊のもとへ遣って救援を求めるとともに自ら精鋭を率いて突囲しようとしたが、長史の関靖が「将軍がここを堅守すればこそ皆がまとまっている、今出撃すればこの城の重心を失う」と諫めたため、瓚はとどまった。瓚は子・劉続と内外呼応の火の合図を約し、使者に書を持たせて「敵の攻勢は神鬼のごとし、速やかに張燕のもとへ馳せて援軍を寄越せ、さもなくば天下は広くとも安住の地を得られまい」と伝えさせた。この使者は紹軍に捕らえられ、陳琳が書を偽作して誘い出したとも伝わる。瓚は救援が来たと信じて出撃したが紹の伏兵に大敗し、再び城に籠った。紹は地下道を掘って楼を崩し、次第に中京に迫った。瓚は敗北を悟ると妻子をことごとく殺し、自らも命を絶った。関靖も「君子は人を危地に陥れたら共に難に殉ずべきだ」と言って紹軍に馬を馳せて戦死した。紹は瓚の首を許都に送った。

鮮于輔・閻柔――魏への帰順

  • 鮮于輔はその部衆を率いて王命を奉じ、建忠将軍として幽州六郡の督となった。太祖(曹操)が袁紹と官渡で対峙すると、閻柔は太祖に使者を送って帰順し護烏丸校尉に遷り、輔も自ら太祖のもとに赴いて左度遼将軍を拝し亭侯に封ぜられ、本州の鎮撫に戻された。太祖が南皮を破ると、柔は部曲と鮮卑の献じた名馬を軍に奉り、三郡烏丸征討にも従い功により関内侯に封ぜられた。柔はその後五官将(曹丕)に自らを託し兄弟のごとく親しんだ。輔もその部衆を率いて従った。文帝が即位すると輔は虎牙将軍、柔は度遼将軍を拝し、ともに県侯に進み位は特進に至った。