三國志卷六 董二袁劉傳第六 袁術

出自と南陽領有

  • 袁術、字は公路、司空袁逢の子で紹の従弟。侠気で知られ孝廉に挙げられ折衝校尉・虎賁中郎将を歴任した。卓の廃立に際し後将軍とされたが禍を恐れ南陽へ出奔、長沙太守孫堅が南陽太守張咨を殺すとその郡を得たが、奢侈と苛斂で百姓を苦しめた。紹・劉表との不和から公孫瓚と結び、紹は劉表と結ぶという兄弟の対立構図が生じた。太祖と紹の連合軍に大破され、九江へ逃れて揚州刺史陳温を殺しその州を領した(裴松之は陳温は病死で術に殺されたのではないと指摘する)。李傕の懐柔で左将軍・陽翟侯に叙せられた際、拝授に赴いた太傅馬日磾の使節としての印綬を奪い抑留し、日磾は憂憤のうちに死んだ。沛相陳珪とはかつての交友から共に事を挙げるよう誘われたが、珪は忠義を説いて拒絶した。

称帝と滅亡

  • 興平二年冬、天子が曹陽で敗れた際、術は群臣に帝位僭称の可否を諮ったが主簿閻象は周の文王の故事を引いて諫めた。しかし術は張炯の符命を用い「代漢者、当塗高」の讖を自らに当てて仲氏を称し僭号、公卿を置き南北郊を祀るなど荒淫を極めた(寵姫馮氏を巡る後宮の悲劇も伝わる)。江淮の民は窮乏し相食むに至り、呂布・太祖に相次いで敗れ、雷薄・陳蘭にも拒まれた術は帝号を紹に譲ろうとして袁譚を頼ろうとする途上で発病し死んだ。臨終に蜜漿すら得られず血を吐いて絶命したという(妻子は劉勲を頼り、のち孫策に接収され、娘は孫権の後宮に、子袁耀は郎中となりその娘は権の子孫奮に嫁いだ)。