三國志卷六 董二袁劉傳第六 袁紹

汝南汝陽の人、字は本初(?–202年)。累代三公を輩出した名門の出で、冀州牧として河北四州を領する後漢末最大の群雄となった。官渡の戦いで曹操に大敗して勢力を失い、失意のうちに病死した。死後、子の譚・尚が後継を争って自滅し袁氏は滅亡した。

年表(6件)
  • 初平四年馬日磾・趙岐の仲裁による関東諸将の和解に応じる
  • 建安五年太祖の劉備討伐の隙を突く田豐の進言を退け機を逃す
  • 建安五年官渡の戦いで曹操に大敗し、子の譚と単騎で渡河して逃れる
  • 建安七年官渡敗戦後の憂いのうちに病死
  • 建安十年正月長子袁譚が討たれ斬られる
  • 建安十二年熙・尚が遼東の公孫康に誘殺され首を送られる

出自と挙兵まで

  • 袁紹、字は本初、汝南汝陽の人。高祖父袁安は漢の司徒となり、安以来四代にわたり三公を輩出し勢威は天下に傾いた。紹は袁逢の庶子で袁術の異母兄にあたり、伯父袁成の養子となった(裴松之は『魏書』の記述との異同を未詳とする)。姿貌威容に優れ、士に対して謙って交わり多くの士が付き従い、太祖も若くしてこれと交わった。大将軍掾から侍御史を経て中軍校尉、司隷校尉に昇った。

何進誅宦官と冀州奪取

  • 霊帝崩御後、何進と共に宦官誅殺を謀るも太后が従わず、卓を召して脅そうとする間に進が殺され宮中が乱れた。紹は虎賁を率いて南宮嘉德殿の青瑣門を焼き段珪らを追い出そうとし、宦官所署の司隷校尉許相を斬った上で宦官を老若問わず皆殺しにし、死者は二千余人に及んだ(鬚のない者が誤って殺されたり、逆に善行のあった宦官まで巻き添えになる濫殺だったという)。段珪らを追い詰めると彼らは河に身を投げ、帝は宮へ還った。
  • 卓が廃立を議した際、紹は太傅である叔父袁隗と相談すると偽って拒み、卓との対立から冀州へ出奔した。周毖・伍瓊らの取りなしで卓は紹を勃海太守・邟郷侯に赦免した。
  • 紹は勃海で挙兵し討卓の車騎将軍・盟主を自称、韓馥と共に幽州牧劉虞を帝に立てようとしたが虞は受けなかった。のち韓馥が公孫瓚に敗れ、瓚が冀州に兵を進めると、馥は逢紀の献策を受けた紹の策動(高幹・荀諶らの説得)により冀州を紹に譲り渡し、紹は冀州牧を領した(従事耿武・閔純・李歴、趙浮・程奐らの抵抗も馥に容れられなかった)。

河北平定

  • 従事沮授は紹に「大河の北を横有し四州の地を合わせ、英雄の才を収め、大駕を西京に迎えて宗廟を洛邑に復し、天下に号令すべし」と説き、紹は監軍・奮威将軍に任じて喜んで容れた。豪傑の多くが紹に付き従い各地で兵が起こった。
  • 公孫瓚が青州黄巾を破って冀州の郡県が靡くと、紹自ら瓚を界橋で迎撃、麴義の八百の先鋒兵が瓚の白馬義従を大破し冀州刺史厳綱以下千余級を斬った。紹自身も瓚の残騎に囲まれ危うく難を逃れた。その後、黒山賊于毒らが鄴を襲い太守栗成を殺した際も紹は動じず、賊将陶升の助けで家族を守り、于毒を破って左髭丈八・劉石・青牛角・黄龍ら諸賊を数万級斬った。初平四年には馬日磾・趙岐による関東の和解にも応じている。

天子迎立をめぐる議論

  • 天子が河東にあったとき、郭図は紹に天子を鄴に迎えるよう勧めたが紹は従わなかった。沮授も天子擁立を勧めたが郭図・淳于瓊が「秦失其鹿、先得者王」の論で反対し、紹は用いなかった(裴松之はこの経緯を伝える二書の間に食い違いがあると指摘する)。太祖が天子を許に迎え河南の地を収めると紹は後悔し、鄄城への遷都を求めたが拒まれた。天子は紹を太尉に任じたが官位が太祖の下にあることを恥じて怒り、太祖が大将軍位を紹に譲ることでようやく収まった(紹自身は封じられた鄴侯を辞退した)。紹は易京で公孫瓚を破りその衆を併せた。
  • 紹は長子譚を青州に出したが、沮授は「必ず禍のもととなる」と諫めた。紹は聞かず「わが子らにそれぞれ一州を治めさせたい」と答え、後には四子それぞれに一州を与える意向まで示した(授は「禍はここに始まろう」と嘆いた)。譚は青州で華彦・孔順ら佞人を重用し苛斂誅求を行った。紹は次子熙を幽州に、甥高幹を并州に置き、数十万の軍を審配・逢紀に統べさせ、田豐・荀諶・許攸を謀主、顏良・文醜を将として精兵十万・騎一万を簡んで許への進攻を図った。

官渡の戦いへ

  • 出征に先立ち沮授・田豐は持久策(民を休め糧を蓄え、精騎で辺境を撹乱して疲弊させる三年計画)を説いたが、審配・郭図の速戦論に押し切られ、沮授は「義兵は無敵、驕兵は先に滅ぶ」「曹氏の法令は行き届き公孫瓚のような相手ではない」と重ねて諫めたが容れられず、逆に権勢を疑われて監軍権を郭図・淳于瓊と三分されてしまった。
  • 建安五年、太祖が劉備を討った際、田豐は太祖の背後を襲うよう勧めたが紹は子の病を理由に許さず、田豐は杖で地を打って惜しんだ。備は敗れて紹の下に奔った。この頃、陳琳が紹のために書いた太祖討伐の檄文が伝わり、太祖の祖父曹騰の宦官としての専横、父曹嵩の売官による蓄財、太祖自身による九江太守辺讓の殺害、呂布への敗北と再興、天子擁立後の楊彪・趙彦への迫害、梁孝王陵の盗掘(発丘中郎将・摸金校尉の設置)などの罪状を列挙して討伐を呼びかけている。
  • 紹は黎陽に進み顏良に白馬の劉延を攻めさせたが、沮授は「顏良は性急で単独には任せられない」と諫めるも聞かれず、太祖が延を救援し顏良を撃破・斬殺した。

官渡の戦い

  • 紹は黄河を渡り延津南に布陣、劉備・文醜に太祖を挑発させたが撃破され文醜も斬られた。沮授は渡河前に「延津に留め官渡に分兵すべき」と諫めたが従われず、失望して病と称して退いた。紹は怒って授の兵を郭図に移した。
  • 太祖が官渡に還ると、沮授は「北軍は数多いが精悍さで劣り、南は糧が乏しいが物資は北に劣らない、南は速戦有利、北は持久有利」と説いたが紹は聞かず、両軍は官渡で対峙、緒戦は太祖不利となった。紹は土山と高櫓を築いて陣中を射たが、太祖は発石車(霹靂車と呼ばれた)でこれを破り、紹の地下道戦術も太祖の塹壕で防がれ、運搬車を焼かれるなどして持久戦は太祖にも重い負担となった。
  • 紹が淳于瓊らに一万余で烏巣の兵糧を守らせると、沮授は蒋奇に別軍を置き曹軍の鈔掠を断つよう勧めたが再び聞き入れられず、太祖自ら歩騎五千で夜襲し淳于瓊を破って悉く斬った。紹の将高覧・張郃が降ると紹軍は大潰し、紹は子譚と単騎で渡河して逃れ、残兵は偽って降った者も含め尽く坑に埋められた(張璠『漢紀』は殺された紹の兵を八万人と伝える)。
  • 渡河しそこねた沮授は捕らえられ、太祖に旧誼から登用を勧められたが「早く死ぬのが叔父・母・弟のため」と述べ、後に紹への帰参を図って処刑された。太祖は「もっと早く汝を得ていれば天下を憂えずに済んだ」と嘆いたという。
  • 田豐は持久策を退けられ紹に投獄されていたが、紹の敗報を聞いた人々は「田豐がいれば」と惜しみ、紹自身も恥じつつも逢紀の讒言により田豐を殺した(田豐は自らの死を予期していたという)。孫盛は田豐・沮授の謀を張良・陳平にも劣らないと評し、忠臣が闇主に仕える悲劇を惜しんでいる。

  • 冀州の諸城で反乱が相次いだが紹はこれを鎮定し、しかし敗戦以来の発病により建安七年、憂いのうちに死んだ。

子 譚・熙・尚――後継争い

  • 紹は容姿の美しい末子袁尚を寵愛し後継にしようとしたが明言しないまま死んだ。妻劉氏は紹の死後、五人の寵妾を皆殺しにしその容貌を損なわせ(死者に霊があれば地下で紹に再会するのを恐れたため)、尚もその家族を皆殺しにした。審配・逢紀は尚を擁し辛評・郭図は長子譚を擁して権を争ったが、譚が立てば評らが害されると恐れた審配・逢紀は紹の遺意を借りて尚を後継に立て、譚は自ら車騎将軍を称し両者は不和となった。

子 譚・熙・尚――鄴攻略と滅亡

  • 太祖の北征で譚が黎陽に籠り増援を尚に求めたが少数しか送られず、逢紀を伴わされた譚は怒って紀を殺した。太祖が渡河して譚を攻めると尚は自ら援軍を率い黎陽で太祖と対峙、二月から九月まで戦って敗退・籠城、太祖は囲みを敷いたが夜に退いた。太祖が南征荊州のため軍を退くと譚・尚は互いに攻め合い、譚は平原に敗走し尚の猛攻に太祖へ救援を求めた。太祖は譚を救援した(劉表が両者に和解を勧める書を送ったが従われなかった。審配も譚に忠義を説く書を送っている)。
  • 太祖は譚と婚姻を結んで安心させて軍を退いたが、尚は審配・蘇由に鄴を守らせ譚を再攻した。太祖が鄴に迫ると蘇由の内応が露見して敗走、太祖は地下道戦を仕掛け審配も塹壕で応戦、太祖は周囲四十里の堤を築いて漳水を決壊させ城を水攻めにし、五月から八月にかけて城中の餓死者は半数を超えた。尚が救援に赴くも太祖に撃退され、陳琳を遣って降伏を乞うも許されず中山へ逃れた。審配の兄子審栄が城門を開いて太祖軍を引き入れ、審配は生け捕られて最後まで屈せず斬られた(辛毗の兄の家族が譚の逃亡時に置き去りにされ配に殺されていたため、辛毗は配を罵ったが、配は「我が君は北にあり」と北を向いて刑を受けたという)。高幹は并州を挙げて降り、そのまま刺史に留任した。
  • 太祖の鄴包囲中、譚は甘陵・安平・勃海・河間を攻略し中山の尚を攻めたため尚は故安の熙のもとへ逃れ、譚はその衆を収めた。太祖が譚を討つと譚は南皮で夜遁したが翌建安十年正月に討たれ斬られた。熙・尚は部将焦触・張南に攻められ遼西の烏丸へ奔った(焦触は幽州刺史を自称し諸郡を率いて曹操に降り、別駕韓珩だけは袁氏への忠義を貫き盟に加わらなかった)。高幹も反乱を起こしたが太祖の親征で匈奴への救援要請も実らず捕斬された。建安十二年、太祖の遼西烏丸親征で熙・尚は敗れ遼東の公孫康に投じたが、康は先に伏兵を置いて二人を誘殺し首級を差し出した(尚は康の兵を奪おうと図ったが逆に謀られたという)。譚は字を顯思、熙は顯奕、尚は顯甫という。太祖は節を守った韓珩を高く評価し招請したが応じず家で没した。