三國志卷五 后妃傳第五 文德郭皇后
安平廣宗の人、字は女王(?–235年)。文帝の寵愛を受け智謀により嗣子擁立にも関わったとされ、甄后失寵の一因ともいわれる。皇后に立てられて後は倹約と謙譲を守り、外戚の専横を戒める令を出すなど、漢の明徳馬皇后を範とした。
出自と入宮
- 文德郭皇后は安平廣宗の人。父郭永は南郡太守で敬侯と諡された。后は幼くして「女中の王」の意で女王を字とされたが早くに両親を失い、兵乱の中で銅鞮侯の家に没した。太祖が魏公であった頃、東宮に入った。智謀に富み文帝の嗣子擁立にも力を貸したという。文帝の王位継承とともに夫人となり、践阼後は貴嬪となった。甄后の死はこの后の寵愛によるものであったという。
立后をめぐる異論
- 黄初三年(222年)、后を皇后に立てようとした際、中郎の棧潛は上疏し、后妃は必ず先代の名族から選ぶべきで、寵愛により賤しい者を貴くすれば上下の秩序が乱れると諫めたが、文帝は聞き入れず皇后に立てた。后は「自分は皇后たる資格に欠ける」と謙譲の上表を行い、即位後も謙虚に卞太后に孝を尽くし、他の貴人の過失を庇い、倹約を守り漢の明徳馬皇后を慕ったという。
人柄と一族への戒め
- 后は早くに兄弟を喪い、従兄の郭表に父の跡を継がせ奉車都尉とした。外戚の縁組みが権勢によるものにならぬよう戒め、婦女の縁談も同様に配慮すべしとの令を出した。
- 帝の東征に伴い許昌の永始台に留まった際、長雨で城楼が壊れても楚の昭王の故事を引いて移動を拒んだ。また郭表が水利工事で魚を取ろうとした際にも、公の利益を優先すべきと諫めた。
晩年
- 明帝即位後、皇太后と尊称され永安宮と称した。太和四年(230年)、郭表を安陽亭侯、のち郷侯に進め、父郭永を安陽郷敬侯と追諡、母董氏を都郷君とした。孟武の母の葬儀を厚くしようとした際、后は「乱世このかた厚葬の墓は皆掘られている、首陽陵(薄葬)に倣うべき」と諫めた。青龍三年(235年)春、許昌で崩じ、遺言の薄葬の制に従い首陽陵の西に葬られた。
- 『魏書』所載の哀策文には、明帝が母の柩を奉じて哀悼する言葉が記されている。明帝は郭表を観津侯に進め、郭永を観津敬侯と追諡、甄后の兄弟らにも追封を行った。表が薨じ子の郭詳が嗣ぎ、その弟郭述も列侯に封ぜられた。詳が薨じ子の郭釗が嗣いだ。