三國志卷五 后妃傳第五 明悼毛皇后

寵愛と立后

  • 明悼毛皇后は河内の人。黄初年間、東宮に選ばれて入り、明帝が平原王であった頃に寵愛を受け、輿を共にするほどであった。即位後は貴嬪、太和元年(227年)に皇后に立てられた。父の毛嘉は騎都尉、弟の毛曾は郎中となった。
  • 明帝が王であった頃に迎えた河内の虞氏は、皇后に立てられなかったことについて「曹氏は元々賤しい者を好んで立てる、義によって挙げられた者はいない。后妃と君主の道が善く始まらねば、良く終わることもないだろう、これでは国が滅び祭祀も絶えるだろう」と嘆いたと伝わる。虞氏は鄴宮に退けられた。

一族の栄達

  • 毛嘉は奉車都尉、毛曾は騎都尉となり、寵恩は厚かった。のち毛嘉は博平郷侯・光禄大夫に、毛曾は駙馬都尉に進んだ。毛嘉はもと車工の出で急に富貴となり、朝臣を招いた宴で振る舞いが不釣り合いで、自らを「侯身」と称し人々の笑いものになったという。青龍三年(235年)、毛嘉薨去、安国侯・節侯と諡された。

失寵と死

  • 明帝が郭元后(明元郭皇后)を寵愛するようになると、后の寵は衰えた。景初元年(237年)、帝が後園で才人以上を集め宴を催した際、郭元后が皇后を招くよう勧めたが帝は許さず、この宴を秘するよう命じた。しかし后は知るところとなり、翌日帝に「昨日の後園の宴は楽しゅうございましたか」と告げたため、洩らした側近十余人が殺された。后は死を賜り、それでも諡号を加えられ愍陵に葬られた。弟毛曾は散騎常侍からのちに羽林虎賁中郎将・原武典農に左遷された。