三國志卷五 后妃傳第五 文昭甄皇后

中山無極の人、明帝の生母(182–221年、享年40)。もと袁熙の妻であったが、冀州平定後に曹丕に嫁ぎ、明帝と東郷公主を生んで寵愛を受けた。晩年は郭后らの寵愛の前に失意し文帝の怒りを買って死を賜った。明帝の代に文昭皇后と追諡された。

年表(7件)

出自と幼少

  • 文昭甄皇后は中山無極の人、明帝の母。漢の太保甄邯の後裔で世々二千石の家柄。父の甄逸は上蔡令であったが、后が三歳のとき没した。相師の劉良は后の相を見て「この娘は貴きこと言うべからず」と評したという。八歳のとき諸姉が騎馬芸を見物する中、后だけは行かず「これは女の見るものか」と答え、九歳では書を好み兄に「女は女工を習うべきで学問をして女博士にでもなるのか」と言われても「古の賢女は前代の成敗を学び自らの戒めとしたという、書を知らずしてどうして知り得ようか」と答えた。天下の兵乱で人々が金銀珠玉を売る中、后は「今の乱世に財宝を買い増やすのは匹夫にも罪となる、穀物を親族・隣人に振る舞うべき」と母に進言し、皆これに従った。
  • 十四歳で次兄甄儼を喪い深く悲しみ、寡婦となった嫂に謙虚に仕えその子を慈しみ育てた。母が嫁たちに厳しかったため、后は「兄は不幸にも早世し嫂は若くして節を守っている、義理からいえば妻のように、愛情からいえば娘のように遇すべき」と諫め、母は感涙してこれに従った。

曹丕への嫁入りと寵愛

  • 建安年間、袁紹が次子袁熙の妻として后を娶らせた。袁熙が幽州に赴任すると后は姑に仕えて残った。冀州平定ののち文帝が鄴で后を娶り寵愛を受け、明帝と東郷公主を生んだ。
  • 后は寵愛が深まるほどにいっそう謙譲し、寵ある者を励まし寵なき者を慰め、文帝に側室を広く求めるよう勧めた。文帝が任氏を出そうとした際も、后は自らのせいと言われることを恐れ強く留意を求めたが、文帝は聞き入れなかった。建安十六年、武宣皇后(卞太后)が体調を崩した際、后は昼夜泣いて心配し、快復の知らせにもなお信じきれず憂えたため、武宣皇后は「これぞ真の孝婦だ」と嘆じたという。

失寵と死

  • 延康元年(220年)正月、文帝が王位に即くと后は鄴に留まった。黄初元年(220年)十月、文帝践阼。山陽公(漢献帝)の二女が魏に嫁ぎ、郭后・李貴人・陰貴人が寵愛される中で后は失意し怨言を漏らした。文帝は激怒し、黄初二年(221年)六月、使者を遣わして死を賜い、鄴に葬った。裴松之は、この事件について正史が事実を隠し虚飾したのではないかと論じている。

追諡と一族

  • 明帝即位後、有司の奏により文昭皇后と追諡され、別に寝廟が立てられた。太和元年(227年)、父甄逸を敬侯と追封し、孫の甄像が爵を継いだ。四年、旧陵を改葬し朝陽陵とした。青龍年間、兄甄儼を安城郷穆侯と追諡、甄像は伏波将軍、のち衛将軍に累進し貞侯と諡された。子の甄暢が嗣ぎ、景初末に射聲校尉・散騎常侍となり大邸を賜った。嘉平三年(251年)、暢が薨じ恭侯と諡され子の甄紹が嗣いだ。
  • 明帝の娘平原懿公主が早世した際、甄氏の遠縁の甄黄と冥婚させ、夫人郭氏の従弟郭德を甄氏の後継として平原侯に封じた。裴松之はこの継嗣のあり方を批判している。甄氏一族の郭德・甄温らは咸熙年間に県公に封ぜられ、晋の泰始年間には位特進を加えられた。甄儼の孫娘は齊王の皇后となった。