十一月一日己巳 各地の攻防
- 王彦が虢州に進軍し、金の知州蕭信を敗走させて回復した。
- 金軍が無為軍を攻めた際、跛の巫師呉椿年が偽って金将に投降を装い、隙を見て馬を奪って逃げ、宋の崔臯軍を導いて無為軍を奪還する機知の逸話が伝わる。ただし崔臯はこの功に乗じて略奪を働き、恩賞は取り消された。
十一月二日庚午 瓜州への遊撃と通州の混乱
- 金の遊騎が瓜州に侵入、劉汜らが応戦して撃退した。完顔亮の本隊は和州の鶏籠山に駐屯し、渡江に向け天を祭る準備を進めているとの情報が伝わった。
- 通州知州崔邦弼は当初籠城を誓っていたが、金軍接近の報に動揺し逃亡を図るも住民に阻まれ、結局ひそかに放火して混乱に乗じ脱出、後に押し戻されて再入城した。
十一月三日辛未 葉義問の鎮江到着とその頼りなさ
- 督視葉義問が鎮江府に到着した。『遺史』は、彼が軍事に疎く、瓜州の戦況にも狼狽し、砂洲に溝を掘り鹿角を並べて「防塁」とするなど的外れな対策を講じて人々の失笑を買った様子を伝える。建康府知事張燾からは金軍が采石方面に迫り渡江の構えを見せているとの急報が届いた。
- 朝廷は山川の神々への祈願・致祭を命じ、また張子顔・韓彦古らの軍需献納に対し恩典を与えた。
十一月四日壬申 瓜州渡の陥落
- 金軍が瓜州を攻撃し、統制魏友・王方が戦死、瓜州渡は金軍の手に落ちた。葉義問は渡江して督戦しようとしたが恐れをなして退き、建康へ向かった。中軍統制劉汜(劉錡の甥)は率先して敗走し、都統制李横も支えきれず退却、多くの将兵が江に落ちて溺死する惨事となった。江南の人々はこれを望み見て慟哭したという。
- 高宗は張浚に対し、観文殿大学士・判建康府への復帰を重ねて命じ、辞退を許さなかった。
十一月五日~六日 蔡州放棄と葉義問の建康到着
- 蔡州を守っていた趙樽は、成閔の命により蔡州を放棄して江防に合流するよう命じられ、李詢を知州として残し撤退した。
- 葉義問が建康府に到着した。
十一月六日甲戌 諸将の処分と人事刷新
- 朝廷は戦況の停滞・失律を理由に、劉錡に代えて成閔を、王権に代えて池州統制李顕忠をそれぞれ登用する詔を発した。高宗は賞罰を厳正にする方針を示し、王権はその臨陣退却の責を問われて更迭・召還された。
十一月七日乙亥 虞允文、采石で敗残兵を立て直す
- 参議軍事虞允文が采石に赴き、王権の軍務を李顕忠へ引き継がせようとしたところ、道中で王権軍の敗残兵が統率を失い四散しているのに遭遇した。虞允文は自ら陣頭に立って兵士を鼓舞し、「戦っても死、逃げても死なら、戦って活路を開くべきだ」と説いて士気を回復させ、水軍を再編して江岸に配備、夜通し防備を整えた。
- 完顔亮は采石対岸で天に祭りを行い、渡江のための順風を祈願し、王権に降伏を促す檄文を送らせたが、虞允文はこれに応じず、逆に金軍に対し徹底抗戦の姿勢を示した。
十一月八日丙子 采石の戦い――金軍を大破
- 完顔亮は自ら采石・楊林の渡河点から渡江を強行した。虞允文は統制張振らと共に水陸両軍を布陣し、海鰍船(快速の外輪船)を用いて金の船団を迎撃、金船十七隻のうち多数を撃破・撃沈し、上陸した金兵も陸上で撃退した。
- 戦闘の結果、金軍の遺体は岸辺に二千七百余、万戸一名を射殺、千戸二名を生け捕りにするなど大勝を収めた。金軍は渡江を断念して退いた。完顔亮は渡江に失敗した決死隊五百人を怒って処刑したという。
- 虞允文はその後の上奏で、防備の強化(塹壕掘削)や、李顕忠が人望厚く後任に適任であること、他方面の援軍(成閔・戚方)の到着を待って反攻すべきことを報告した。この采石の戦いは、金主完顔亮の南征を頓挫させる決定的な勝利となった。